共有回廊を歩きながらぼんやりと小さな紙を見つめた。「研究室 26-A-A8」と書かれている。
サリーニ博士が一度シャワーを浴びに研究室へと戻ると言うのを見送り、俺は共有スペースを目指して歩いていた。二時半まであと三時間ある。
研究助手の仕事が始まってからまだ一度も博士の研究に携わっていない。もちろん、修士号を取得していない俺が「知の塔」で研究助手研修を受けられること自体、奇跡のようなことだから仕方がないと目を瞑るしかなかった。
若者の研究職離れは深刻だ。大学に研究助手研修の案内が届いた時も、応募すると乗り気だったのは少数だった。インターンシップに近いものだし、博士の性質的にも和気あいあいとした学びの場になるなんて有り得ないことは分かっている。とは言え、給料を貰いながら間近で仕事をしているところを見られるのだからこんなに貴重なことは無い。それだけで俺は満足だった。
コモンルームと呼ばれる勉強や小休憩のできる共有スペースに到着し、カードキーをかざして中に入る。人はほとんどいない。
小間使いと言っても夜遅くに資料を取りに行ったり朝早くから会合の準備をしたりと、博士ほどではないにしろ忙しい。今まで課題を片付けレポートを書いていた時間が減っているのは事実だった。これで成績が落ちてしまっては元も子も無い。
連絡が来てもすぐに分かるように端末をテーブルに置き、タブレットを取り出して課題に取り掛かった。
◇
二十三階に到着し、客間で白衣や手にアルコールを吹き付けてから研究室に戻った。
ようやくシャワーを浴びられることに安堵すると共に、カナレスが何事も無くロケの研究室から出られるかどうか、憂慮する気持ちが絶えなかった。
カナレスから何か分かれば連絡をすると言われたものの、そんな余裕をあの男が与えてくれるとも思えない。今日も面接があるにも関わらず招くところを見ると、やはり何か理由があってカナレスに固執しているように見えた。
「…………」
独り言が出そうになるのを唇を噛んでやめる。行かせるべきではなかっただろうか。しかし助手がいなくなったとして、僕にとってはむしろ好都合だ。近づきすぎることを恐れる必要も無くなる。
深く息を吸い、乾いたタイルに足を置いた。シャワーのコックを捻り、俯いて頭から温かな湯を浴びる。タイルに当たり跳ね返る水音が心地良い。
ここのところ、研究ではない別のものに思考を占拠され続けている。そんなことでは「永遠」は、ダリラは完璧にならない。
人体の結晶化に必要なことだけを黙考する。それだけの為に僕は、ここにいるのだから。
清潔な服に身を包み乾かした髪を結えば、欝然とした気持ちもどこかへ消えた。書き溜めた資料と端末、カードキーを持って研究室を出る。
実験室に籠り仕事に集中すれば良い。今まで通りに。
三時を過ぎて何かあればメッセージの一つでも寄越してくるだろう、と僕は端末をポケットに仕舞い込んだ。
◇
連絡が来ていないか、キーボードを叩きながらも意識はそちらに引っ張られていた。集中しなくてはと思いつつ、サリーニ博士から実験の手伝いを頼まれることを期待している。しかし刻一刻とロケ博士の面接終了の時間は迫り、とうとう何の連絡も来ないまま二時になってしまった。
「……はあ」
溜息を吐いて仰け反る。ゆっくりと伸びをしてから、まだ書き終わらないレポートを保存し少し早いが席を立った。
エレベーターに乗り込むと、何人か教授らしい人が同時に乗り込んで来る。上の階に進むにつれ、エレベーター内の人は減っていった。二十三階を通り過ぎ、二十六階に辿り着く。ポーン、という音と共にドアが開いた。
自分の靴音がやけに大きく聞こえる。このフロアは少し、本当に少し空気が違う気がした。今朝会合の為に最上階に行ったときは感じなかったものだ。ベルの音と共に空のエレベーターはぐんぐん下へと降りていく。渡された小さな紙を見つめながら、俺は足を動かした。
「にじゅう、ろく……」
Aフロアを歩いてすぐに、プレートに書かれた「26-A-A8」の文字を見つける。会社の重役しか座らないであろう重そうなイスが置かれた部屋があり、その隣にはブラインドの下ろされた部屋、そして。
「じゃあ結果は追って知らせるよ。今日はわざわざどうも、書類を大学院に送っておくから」
フロアに響く、低いが澄んだ声。スーツに身を包んだ学生らしい人が二、三人部屋から出てきて、その後ろからあの薄紫色の髪が見えた。俺に気がついて目を大きくする。
「ああ、カナレスくん来てくれたんだね。ジャストタイミングだよ」
持っていた書類を軽く振り、ロケ博士は満面の笑みを向けてくる。エレベーターの方へ歩いていく学生を見ながら俺は言った。
「今のは助手候補の?」
「そうだよ。遠方の大学院の方から直々に申し出があってね……立ち話もなにだし、入って入って。片付けが済んでないから雑務室で良いかな?」
「あ、はい」
先程まで面接を行っていた部屋とは別に、あの豪華なイスが置かれていた部屋に案内される。中に入ると、何となく違和感を覚えた。しかしそれが何なのかは分からない。
「サリーニくんは今日は何をするって?」
「実験室に籠るとおっしゃっていましたが、詳しくは」
「そう。俺が言うことじゃないけど、きみここに来て良かったの? まあとても助かるけどね。ずっと話したかったんだよカナレスくんと」
イスに腰掛け、コンピュータを操作したかと思えば立ち上がって何かを探すように動き回る。落ち着きの無い動作だ。そしてこの部屋にはそのイス以外に座れる場所は見当たらない。違和感の正体はこれだったのか、と納得した。
「どうしてそんなに俺なんかと?」
「どうしてって、きみは自覚が無いのか。いや、良いんだよ。分からなくて当たり前だ。分かっているなら結晶現象学なんかには進まないだろうから」
喋りながら俺の近くの棚をがさごそと探し回る。邪魔にならないように隅へ移動しながら口を開いた。
「どういう意味ですか?」
「それはね、っよいしょっと。失くしたかと思ったよ……はいこれ嵌めてみて」
書類の束から見つけ出した小さな何かをこちらに差し出す。受け取ってみれば、それは指輪だった。
「これって?」
「良いから良いから。どの指でも構わないよ」
受け取った指輪をじっと見つめる。シルバーの幅広でシンプルな指輪だ。
一瞬、ロケ博士の恐ろしい噂が脳を過ぎる。しかし恐怖と好奇心とを天秤にかけ、好奇心が勝ってしまった。緊張し、震える右手の中指にそっと嵌めてみる。
「……?」
「?」
嵌めたところで特に何も起こらない。緊張したのが拍子抜けした。ロケ博士が俺の手を取って見る。
「ん? あれ、それただの指輪?」
「どうして指輪を……あ、」
どく、と脈が速くなる。全速力で走った後のような、全身に血液が循環していくのがまざまざと分かる。右手を見てみれば、銀の指輪が濃紫に光っていた。
「な、これ、……!」
「……やっぱりだ、きみはやっぱり最高だよ。どうして今まで魔力工学に興味を持たなかった? これほどまで俺に近い人間を見た事が無い……」
心臓が耳元で鳴っているかのように感じられるほど煩い。立っているのが苦しく、棚に寄り掛かるようにしてずるずると重力に負けていく。ロケ博士は嬉しそうに笑った。
「ゆっくり深呼吸をして、それから……そうだな、俺の手を握ってごらん」
「は……、?」
指示の意味が皆目理解できない。しかし懸命に呼吸を繰り返した。微かに脈拍が落ち着き、それから言われた通りに手を握る。と、途端に自分の身体を覆っていた熱が引いていく感覚がした。
「え、……え?」
「あはは! リアクションが面白いな。不思議だろ」
「……ど、どういう……」
右手から指輪を外され、ようやく倦怠感が離れた。支えられながら立ち上がる。
「魔力工学についてどこまで話をしたかな。まず今きみの身に起こったことを教えてあげよう」
そう言いながら、一度ロケ博士は隣の部屋へと姿を消した。物音の後、簡易なイスを持って現れる。
「はい座って。まずあの指輪だが、あれは俺の研究の試作品なんだよ。きみの身体に流れている魔力を体感できるようにした。俺が研究している魔力工学というのは、有機物・無機物関わらず内包している魔力――エネルギーとでも言っておこうか。それを工学に用いる為の学問のことなんだ」
「……その、魔力っていうのは」
口を挟もうとしたのを指で押さえられ制止される。ロケ博士は不敵に笑んだ。
「し。説明するよ、焦らないで。魔力と言うと、きみに限らずほとんど全ての人間が素っ頓狂な顔をするね。しかし魔力は文字通り魔法のような力だが、魔法が使えるわけじゃない。そんな非科学的なものではないんだよ。俺が嵌めているこの指輪、これは今きみが体験したように、自分自身が持つ魔力を体感する為の物だ」
手を目の前に翳してひらひらと見せる。今朝、サリーニ博士の肩を叩いたときに光っていた指輪だ。ロケ博士は左腕の裾を僅かに捲る。
「そしてこのバングルが、その魔力の影響を極限まで減らす為の物。バングルを嵌めていれば、過度に高い魔力を持つ場合でも影響を受けなくなる。言わば抵抗器だね」
腕を振り今度はバングルをひらひらと見せながら一気に言葉を吐き出す。俺は頭の中で文字列が絡まっていくのを感じ、目を瞬かせた。
「俺にも魔力があるってことは、サリーニ博士や、……このイスにも魔力があるって言うんですか?」
「そうだね。しかし平均的に見て無機物に内包されている魔力は低いから、指輪を嵌めたところで感知できるほどのものではないよ。それと、今まさに研究中の物なんだが……きみは視力は良い方? 眼鏡はしていないようだけど」
「まあ、それなりに良い方です」
「そうか」
言いながらまたもや棚や物が煩雑に置かれたところをがさごそと探し回り、見つけたのは四角い何かのケースのような物。
「これはコンタクトレンズ。魔力を視認できるようにと開発したもので、しかしな、付けるときに猛烈に痛むんだよ。付けてみる?」
ケースを開かれる。一見して市販のコンタクトレンズと相違するところは見当たらなかった。しかしやけに赤い気がする。
「い、嫌です」
「だろうな。まあそれはどうでもいいんだ」
どうでもいいのか、と思っているとロケ博士はコンタクトをポケットに仕舞い腕を組んで話を続けた。
「工学にどう用いるかが本題だが、この魔力というエネルギーを電力にとって代わって使うことができれば、災害時にライフラインが絶たれるような状況でも様々なことに応用できるんだよ。石炭や石油、天然ガスなどの枯渇性資源などもう必要が無くなるということだ。太陽光、風力、火力、水力、原子力、そんなものを使う必要も無くなるかもしれない。リスクある再生可能資源や大変な労力を使う資源よりも簡単に、かつ、半永久的に使える資源……! しかもそれが人間の体内に存在している。それが魔力だよ。よってカナレスくん」
ふう、と息を吐いたと思うと一歩二歩、近づいて棚に手をつく。見下ろされるようにしてぐっとワインレッドの瞳が迫った。気迫に押されて息を飲む。ロケ博士の声が静かに鼓膜を揺らした。
「……きみのように、先天的に魔力が高い人間がいればこの研究は多いに発展を遂げるんだよ。俺は俺の身体を使って実験している。しかし己の右手で右手をスケッチすることができると思うか? できないよな? つまりそういうことだよ」
「は、はあ……」
こんな時でもロケ博士は笑顔をやめない。ぱっと離れると、腰に手を当てて髪を払った。所作には美しさが垣間見える。
「俺はね、この魔力工学に命を賭けているんだ。人類がこの先、資源の枯渇で苦しむことになるか、それとも永遠に豊かな資源を使うことができるか。それは俺の手にかかっていると感じている。後続の人間を育てることができれば、俺は少しでも多くの研究をここへ残すことができるだろう。俺の知識を余すことなく引き継げる」
「何だか……自分の寿命を知っているかのような言い方をするんですね」
言ってしまってから、失礼だったと口を手で覆う。しかしロケ博士は可笑しそうに声をあげて笑った。
「意外にそうかもしれないよ。〝何人もの助手を食って若返りの力を手に入れた〟と言われるくらいだからね」
「ご自身の噂を知っているんですか?」
「ああそうとも。嫌でも聞こえてくるさ、まあ俺は何を言われようと一向に構わないが」
快活に笑い飛ばし、俺もつられて笑いそうになった時。ロケ博士は「ところで」と呟く。
背筋を怖気が走った。俺の目を真っ直ぐに見射るその目。
「カナレスくんが貰っている給料の、三倍を俺は払えるよ。大学生ならまだ進路変更の余地は充分にある、卒業してからでも遅くない。何なら俺が直々に教えてあげる。だからおいで、俺の研究所に」
打って変わって穏やかで、流れるような声。思わず頷きそうになるのをはっとして止めた。しかし給料三倍、となれば卒業まで働くことなく暮らせるかもしれない。
「…………俺、」
その時、ポケットに入れていた端末が震えた。驚いて口を閉ざすと、ロケ博士がポケットを指さす。
「どうぞ確認して。丁度いい、俺は少し応接室を片付けてくるよ」
「あ、すみません。失礼ですが」
取り出し、通知を確認するとサリーニ博士だった。内容を確認する前からほっとするような気持ちがして胸を撫で下ろす。
メッセージを確認すると、そこには『実験が思ったよりも難航している。彼の演説が終わったら連絡をくれ。』と、にべも無い言葉が綴られていた。「そろそろ終わりそうです。終わり次第そちらへ向かいます」と返信を打ち込み送信したところで、ロケ博士が雑務室へと戻ってきた。
「サリーニくんから熱烈なメッセージでも来ていたかな? これから応接室に移って面白おかしく魔力工学について話そうと思ったが」
「それは残念ですが、実験が難航しているようで。今日はこうしてロケ博士の話が聞けて楽しかったです」
立ち上がって笑ってみせると、ロケ博士もそれに笑顔を返して紙袋をこちらへ差し出した。
「これは手土産。甘いものは嫌い? サリーニくんと二人で食べなよ。俺はもう食べたけど美味しかったよ、中にリキュールが入ってて」
「いえ、申し訳無いです。学生のくせして何も持たずに来てしまって……」
「そう言うなよ。それならまた来てくれるかな、きみとは馬が合いそうだからね。サリーニくんともまた食事がしたいと伝えておいてくれないか。研究室に住んでいるようだから」
皮肉めいて言うとロケ博士は俺の手を取って紙袋を持たせる。お礼を言いながら深く頭を下げ雑務室から一歩、足を踏み出そうとした。
瞬間、肩に手を置かれてぐっと身体を引き寄せられ、小さく耳元に囁かれる。
「――気をつけろよ、彼は犯罪者だ」
「……え、」
振り返ると、またしても仮面のような完璧すぎる笑顔と対面する。
「なに、を知って……」
「さあね。それとカナレスくん、愛想笑いももう少し上達するといいね」
ロケ博士は目を細め手を振りながら、にこやかに言った。口を開くも上手く言葉が出ない。
「食べたら感想を聞かせにまた来てくれ。じゃ、また」
「……あ、……はい、また」
失礼します、と声を掛け、部屋を出てエレベーターへ足を向ける。紙袋を持つ手が震えた。部屋を出る時上手く笑えた気がしない。カッ、カッ、と靴の底が廊下に当たって音を立てる。心なしか足が速まり、最後にはエレベーターに駆け込んで二十三階のボタンを何度も押した。
サリーニ博士が、犯罪者?
そんな訳が無い。絶対に有り得ない。しかしまだ会って数日しか経っていない。博士のことを、俺はあまりにも知らなかった。
心臓に冷水を浴びせられたような心地がする。全身に疑惧と恐れが纏わりついて、離れない。
早く、一刻も早く博士の口から否定の言葉を聞きたくて俺は飛び出すようにしてエレベーターを降りた。
2019年12月
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