Data,6

 

「……ふう」

 防護ゴーグルを外して大きく溜息を吐いた。実験が失敗することは悪いことではない。だがこうも失敗続きになれば気が滅入るというものだ。

 新鮮な空気を味わいたくて吸い寄せられるように窓際へつま先を向けるも、窓を開くには一度警備システムを通さなければならないのが面倒だった。室内に篭もりきりの生活が長いが、こうして実験が難航するとたまに外を歩きたいような気持ちにも駆られる。

 地は遥か下だ。通行人がとても小さい。

 課題は山積みだった。これまで先人が研究してきたことを踏まえて僕が何度も研究と実験を繰り返し、それでも尚商業に活かすに至らない。

 宝化細菌を簡単に培養し、企業や家庭でも簡単に結晶化できる環境づくり。それができなければ、期限を気にすることない「永遠」の状態維持を叶えることはできない。食品だけではない、標本作製においても有害なホルムアルデヒドを使うことなく結晶化での状態維持ができれば、廃棄処理時の作業者のリスクを軽減できるだけでなく、問題視されている環境悪化も防げる。細胞を死滅させるホルマリン処理と違い結晶化を用いれば、言ってみれば時を止めることができるのだ。

 ただ結晶化には重大な欠落がある。それは宝化細菌の死滅温度が低いこと、そして一度結晶化させたものを元に戻す際にどうしても結晶が液体へ戻ってしまうこと。

 縮こまった身体を伸ばしながら時計を見てみれば、気が付かないうちに午後二時三十八分を指していた。ロケの助手面接はとっくに終わっている頃だ。今頃は魔力工学について、長ったらしく独善的に話し込んでいるだろうことは想像に難くない。

「…………」

 連絡が来るのを待とうと思ったものの、実験が思うように進まないことで考えが不明瞭になっていた。カナレスとの関わりを不必要に増やす真似はしたくなかったが、しかし僕の目的を果たす為に他者の協力が必要なのは事実だ。

 手を洗い消毒をし、端末を開いてメッセージを送信。心なしか、ロケの思うつぼなのではないかという気もするが構ってもいられない。

 端末をポケットへ仕舞おうとすると手の中で震えた。開けば『そろそろ終わりそうです。終わり次第そちらへ向かいます。』と綴られている。生温い、安心するような気持ちで文字列を眺めた。

 今まで助手を取らずにどう研究していただろうか。実験に必要なものを準備することも、それらを終えて片付けることも、大した労力は要らない。自分に無い新しい視点で見える意見を、今まで必要とせずにどう研究していたというのだろう。

 カナレスは優秀だ、助手をとってよかったなどと思えてしまうくらいには。だからこそそれがとても恐ろしかった。研修にも終わりがある。契約満了の時が来ればもう研究室に来ることも無くなる。

 いくら僕自身が損をしないからといって、やはり助手をとるべきではなかったのではないかという感情が幾度となく襲った。

 一日に吐く溜息の回数は今までも決して少なくはないが、最近は特別増えている。再来月に控えた研究発表会に持っていく為の論文のこともあり、羽を伸ばせる日も全くとれていなかった。今日だけで何度目かの溜息を零して、資料を手に取ろうと腕を伸ばした時。

「博士! サリーニ博士! 開けてください、博士!!」

 扉をドンドンと叩く音に自然と眉が歪む。ロックを解除しに扉まで向かい、開けてやると転がるようにしてオリーブグリーンの髪の男が現れた。咄嗟に避けるとバランスを崩して転倒する。カナレスは顔面を蒼白させながら僕を見上げた。

「……騒がしい」

 言えばカナレスははっとして口を押さえた。今更遅い。

「どうした、ロケ博士にどこか齧られでもしたの」

「……い、え。……いや、ある意味、食われるかと思いました」

「煮え切らない言い方をする……それで、彼について何か分かったのか」

 口を動かしながらテーブルの方へ身体を向けると、立ち上がったカナレスが震えた声で言った。

「あ、の……博士は、その……俺、」

 怯えたような表情で、自分の腕を掴んで視線はどこか泳ぎがちだ。机上の資料とカナレスとを見て、これ以上作業をしても進まないだろうと片付けに取り掛かる。

「話は研究室に戻ってゆっくり聞く。とりあえず実験器具の片付けとか手伝って」

「……は、はい」

 カナレスは素直に頷くと片付けの手伝いを始める。要領よくこなし、最終チェックを終え、実験室を後にした。

 

 

 共有回廊を歩いている時、普段は話題に事欠かないカナレスがずっと僕の後ろを付いて歩きながら黙っていることからして、またロケがろくでもないことを吹き込んだのだと分かった。

「……それで、何をあんなに焦りながら駆け込んできた」

 コーヒーを啜ってカップをテーブルに置き、話を催促するもカナレスは具合でも悪いのかと聞きたくなるような顔をしていた。下唇を噛む仕草に手遊び。

「言いづらい?」

「い、いえ……その……」

「まず、研究室で何があったのか話してもらわないと僕は何も分からないが」

「そう……ですね」

 カナレスはやっと顔を上げ、僕を見ると務めて冷静に話そうと居住まいを正した。

「……二時に研究室に着き、雑務室に通されました。そこでいきなり指輪を嵌めさせられて、俺の魔力が高いのだということを言われて」

「君の魔力が高い?」

「はい……早口に魔力工学についての説明をされて、それから……給料を三倍出すから来ないかと誘いを持ちかけられました」

「…………」

 あの男ならやり兼ねない手法だ。カナレスが忙しなく手を組み替えたり握ったりするのを見ながら聞く。

「それで、断ろうとしたところでサリーニ博士からメッセージが来たので話が一度中断になって……そこから返事はしていないです。あ、それと、手土産を貰いました。博士と二人で食べろと」

「僕と? ……それ、転んだ時に床に打ち付けていたが食べ物だったのか」

 紙袋から取り出したのは箱に入れられたチョコレートだった。テーブルに出されるも食べる気になれない。それはカナレスも同じようだった。紙袋へ仕舞い、脇へ置くのを見る。

「すみません……過度に慌てる必要はありませんでした」

「そうだな。食われるかと思ったというのは?」

「ええ、と……気迫が」

「なるほどね」

 苦笑いするカナレスにつられて僕も笑った。

「……サリーニ博士、」

 目を見ると、逸らさず真剣な面持ちで視線を返してくる。手遊びをやめ、ぐっと手を握るのを見て僕も少し背を伸ばした。

「俺、この先大学院へ進んで、結晶現象学をもっと学びたいと思っています。いずれ研修ではなく正式に研究助手として……また「知の塔」に来たいと思ってるんです。博士は、……サリーニ博士は、この研修が終わった後も助手を募集するつもりがありますか?」

「…………」

 まさに、今悩んでいること。カナレスは僕の返答を待っている。何と言おうか考えていると、カナレスは頭を振った。

「以前にも言いましたが、俺は給料だけが目当てで助手に応募したわけじゃありません。この四日までで、新しいものをたくさん見て経験しました。この先もたくさんのことを学ばせていただきたいと思ってます。サリーニ博士の仕事を近くで見られることも、会合に出席することも、俺にはとても貴重な体験なんです。だから……その、俺、」

 言葉に詰まったカナレスが目を伏せる。僕は噛んだ唇に少し触れ、それからゆっくりと口を開いた。

「……僕は今まで助手を取るつもりは無かった。ロケに言ったように、門を叩くような……君のような人がいなかったから。それはもちろんあったし、それから僕自身、下の者を教育し指導するような器じゃないと思っている。だから助手を取っても上手く関わっていける自信は皆無だった。それに資金も必要になるしね」

 カップを手に取って握るように持つ。カナレスは静かに僕を見ていた。目線を合わせることなく、ただカップの中の黒い液体に目を落として続ける。

「上から後続の育成のことで話をされた時、正直とても困惑した。僕が誰か他の人間と関われるほどオープンで調和的ではないことは、君も分かるだろう。だが、面接くらいなら一度してみても良いと思った。手が足りていなかったのも事実だし……」

「……博士は他人がお嫌いですか?」

 申し訳無さそうに窺う顔。コーヒーを啜ると少し温くなっている。

「……そう……いや、違うと思う」

 息を吸う。

「僕は……」

 良くない予感が、じくじくと心臓の辺りを喰う。喉に引っかかって言葉が出てこない。カップを強く握ると、カナレスが口を開いた。

「俺は人が苦手です。今もこうして、すごく……頭の中がぐちゃぐちゃとしていて。……話がずれてしまいましたけど、とにかく、その……サリーニ博士が嫌でないなら、大学を卒業しても研修を続けてもらえませんか?」

「…………」

 そう来るか、と目を丸くした。顔を上げれば、カナレスは至って本気の顔をしている。――それは研究者の顔だ。

 結晶現象学の進展には、他人の力は必須条件。しかし、それで僕の研究の本当の目的が知れてしまったら? 結局はそこに終結する。僕のことを必要以上に詮索しないカナレスだから、助手としてここに置いても良いと判断した。だがロケのことと言い、あの慌て様と言い、決して油断はできない。

 ロケのあの忠告が頭を過ぎる。あいつはどこまで知っている?

「博士、サリーニ博士」

「ああ……。返事は、現契約が切れるまでに判断させてほしい。僕だけの希望で研修の延長ができるかどうかは分からない」

「そうですか。……今はそれで充分です」

 にこりと笑ってみせるカナレスだったが、しかしその笑顔が作られたものであると分かる。向こうに透けて見えるのは、将来への焦りか、それとも――

「じゃあ、コーヒー淹れなおすので貰ったチョコレート食べてみませんか?」

「そんな物もあったな。……一つだけもらうよ」

 手を差し出されてカップを渡す。カナレスがコーヒーを淹れなおすのを見てから、テーブルに出された箱を見つめた。

 ――迂闊にロケとコンタクトを取れば、墓穴を掘ることになりかねない。しかしカナレスがあの場で、僕には言いづらいことを言われたことは恐らく間違い無かった。言えない理由があるのだとすれば、カナレスなりに僕へ配慮をしているのか、それとも彼自身に関することなのか。

「はい、どうぞ。これ開けても?」

「開けて。……カナ君は甘いもの好きなのか」

 促すと、カナレスが包装を解いて箱を開けながら言った。

「そうですね、嫌いではないです。サリーニ博士はどうですか?」

「僕は何かを食べることがそもそも……この話、前にもしなかったか?」

「したかもしれないですね」

 カナレスはくすりと笑って、箱を開けたチョコレートをテーブルに置く。中身はルビーチョコレートとビターチョコレートの二種類だった。

「あ、そう言えばロケ博士が中にリキュールが入っていると言っていました。ごく少量ですが酒は平気ですか?」

「ああ……今日はもう仕事はしないし、運転もしないから平気だろう……君は?」

「俺は得意じゃないので、一つだけにしておきます」

 言いながら取って口へ運ぶのを見る。僕も一つ、口に含んで噛むと中からとろりとリキュールが流れ出た。カナレスを見ると眉を顰めている。

「……思ったよりリキュールが多いですね」

「ん……だが甘いよ。何かの果物の香りがする」

「カシスだと思います。気に入りましたか?」

「ああ、美味しい。……恐らく」

 言ってカップを傾ける。嫌な感じはしないから、嘘ではないだろう。カナレスは丁寧に箱を閉じると、立ち上がって棚に仕舞おうとした。ふとそれを止めて、考える。

「……今から実験室に行く時間はあるか?」

「実験室にですか? ……はい、ありますね。でも」

「さっき実験をしていて君の意見が欲しかったところだ。その、チョコレート持って行こう。少し試したいことがある」

「これを? 分かりました、では手続きをしておくので博士は準備をしてください」

 てきぱきとカナレスが実験室の使用手続きを進める。僕は必要なものを研究室から取って客間に戻った。

「準備できましたか? 行きましょうか」

「ああ。帰りは少し遅くなるよ」

「帰るのが面倒だったら、また客間で寝ますよ」

 他愛ない会話をしていればカナレスはすっかり元の調子に戻ったように見えた。共有回廊を歩きながら資料を抱える手に力を込める。

 今は、警戒するに留めておこう。余計な動きをすればぼろが出てしまう。ロケがどういうつもりなのか、それが分かるまで今僕がやるべきことはひとつ。

「さて、実験を始めようか」

 カナレスが知的好奇心を孕んだ目を細めて笑った。

2020年3月