Data,8

 

 しんと静かな客間のソファで目を覚ます。起き上がり、腕時計に目を落とせば針は午前五時七分を指していた。

 研究室からは微光が漏れている。サリーニ博士は俺が寝た後も研究を続けていたようだ。

「……」

 声をかけようとして、躊躇する。脳内にロケ博士の意味深長な笑みが浮かんでいた。博士が犯罪者だなんていう戯言、しかしロケ博士ほどの地位の人間が、俺のような学生相手にジョークでもそんなことを言うだろうか。

 脱いでいた白衣に袖を通して、薄暗い研究室へ視線を向けた。

 ロケ博士が言うようにサリーニ博士が罪を犯しているのなら、その秘密はきっと研究室にある。コンクリートで固められた博士の胸の内を、真相を、知りたいと好奇心が騒いだ。しかし今は殊更、聞くことすら憚られる。もしロケ博士の差し金だと思われれば全ての信頼を失ってしまう。

 コーヒーを淹れ、シュガーにミルクを足して飲み下す。温かく、身体に安堵をもたらした。大きく息を吐くと、物音に気が付いたらしく研究室のドアが甲高い機械音を立てながら開く。中からふらりと現れた博士は俺を見て目を丸くした。

「……随分と早起きだな……おはよう」

「おはようございます、目が覚めてしまっただけですよ。六時半に起きるつもりだったんですが」

 挨拶をしながら博士にもコーヒーを淹れた。水蒸気の立ちのぼるカップを持って、博士はソファに腰かけながら問う。

「ソファじゃ眠れない?」

「寝返りが打てないようで身体が痛みますね。首を寝違えそうです」

「そう……今度簡易ベッドでも注文しておいて。ああ、畳めて掃除がしやすい物が良い」

「チェックしておきますね。リストアップしたらお見せするので、選んでください。……ベッドって経費で落ちるんですか?」

「どうだろうね。助手をとるにあたって必要な物、と見なすなら……いや、ベッドは流石に経費じゃ落ちないか」

 笑う博士は目の下にクマができている。疲れているからか、眠たいからか、普段よりフランクだ。

「眠らなくて平気なんですか。今日も睡眠時間が足りてないと思うんですが……」

「……眠気は感じるが、できる内に詰めておきたくてだね。君の意見もクリッピングしておきたかったし、それに今日は少し外を歩こうと思っていて」

「え、外を? 外を歩くんですか?」

 失礼な反応をしてしまった、と一瞬は思ったが、博士は気を立てることもなくコーヒーを啜って言う。

「もう一週間以上は知の塔から出ていない。たまにはフィールドワークも必要だろう」

「……でもそれじゃ、余計に眠った方が良いですよ。日光に当たりながら歩くのは体力を使いますし、それに」

「はいはい。説教は分かった」

 眉を顰めるサリーニ博士の顔色はやはり優れない。カップをテーブルに置いて博士はソファから腰を上げた。

「これから数時間仮眠を取るが、そのあいだにここの掃除を任せても良いかな。埃が気になる」

「分かりました。フィールドワークは俺もついて行って良いですか?」

 空になっているカップを片手に問う。博士は俺に顔を向けることなく、手を振って研究室へと入っていった。

 シャワーを浴びても眠気は飛ばないのだろうか。そんなことを考えながら、少しだけ欠伸を噛み殺して掃除に取り掛かった。

 

 

「久しぶりの直射日光だ……」

 博士は眩しそうに目を細める。陽射しは容赦なく照らしてきた。「知の塔」の外を歩いていて博士と会話していることに違和感を覚える。

「フィールドワークと言っていましたが、どこか目星をつけているんですか?」

「いや。ただ、君の大学で講義をしているから顔を出そうかと。……買い出しもあったな。雑務が多くて困るよ」

 大学、と聞いて声を出しかけた。いや、きっと大丈夫。笑って胸を張った。

「その為の助手では? 買い出しなら俺がしますよ」

「まあ……注文すれば済む話だし、わざわざ店頭に行く必要は無いがね。せっかく外に出たからついでと思って」

 言いながら博士が腕時計に目を落とす。俺も時間を確認し、目的地の順路を提案して歩き始めた。

 最初に向かったのは「アステリラ国立大学」。毎日通う場所でも、博士が同行していると緊張感があった。それは非日常から来る緊張でもあったが、何より、博士の前で知り合いに会いたくないから。

 考えている内にも、何も知らない博士は門を通りエントランスへと入っていく。

「おはようございます。アステリラ国立大学へようこそ」

 機械音声が出迎える。来客用玄関から入るのは久しぶりのことだ。博士は堂々とした態度で音声案内へ問いかけた。

「こちらの結晶現象学の教授は今どちらに?」

「――問い合わせ中です――結晶現象学教授は現在、四階学内研究所にいらっしゃいます」

 アナウンスを聞くなり、博士はエレベーターホールへ向かう。耐えきれなかった俺は博士に問うた。

「教授と会うの、嫌じゃないんですか?」

「……その聞き方だと、まるで僕が誰かと会うのを嫌がってるようだな」

「い、いえ……そういうわけではないんですが」

「講義を頼んでくれるおかげで研究費を捻出できている部分もある。この間の冊子……「結晶現象学のすゝめ」の印刷費は大学持ちだったし、それに君の成績の融通もきかせてくれているから」

「成績の融通って……俺が一限間に合わなかったりしたこと、ご存知だったんですか?」

 エレベーターが四階に到着する。開ボタンを押しながら言うと博士は鼻で軽く笑った。

「朝まで研究に付き合っていて、一限に間に合うはずが無いだろう。知の塔からここまで早くて三十五分は掛かる」

「……恐れ入りました。今まで欠席したことが無かったので、正直困っていたんです」

 話している間に研究所へ到着する。ノックし、返答の後に中に入ると教授の歓声が部屋に響いた。

「おお、サリーニ君! その節はどうも!」

「こちらこそ。言っていた学生の成績の方は?」

「あれ以来少しだけ上がりましたよ。講義中も心なしか関心が高いように見えますな。……そうだ、カナレス君がいつもお世話になっております」

「お世話になっているのはこちらの方です。いつも助かっています」

 目の前で自分のことについて話されるのはいささか恥ずかしいものがある。

 立ち話の間にここから逃げてしまおう、と小さく手を挙げた。

「あ、あの博士。俺ちょっとロッカーに行ってきても?」

「構わないよ。ついでに飲み物頼んでも良いかな」

 頷き、教授が応接間に案内するのを見送って俺は研究所を出た。一人になれば途端に日常に戻ったような心地になる。

 俺はずっと、博士は一人になりたいのだと思っていた。ロケ博士への態度は特別悪いのだとしても、実際博士は他人とのコミュニケーションを避けているのは事実だ。しかし大学からの依頼は必ずと言っていいほど受け、きちんとこなし、こうして用がなくても顔を出す。

 俺がもしも犯罪を犯していたなら、あんな風には立ち回れない。それなら、ロケ博士の言ったことは「はったり」?

 エレベーターを降り売店へ向かったところで、後ろから俺を呼ぶ声がして嫌気に胸を刺された。

「ライネリオじゃん、お前今日休みじゃなかった?」

 放っておいてくれ、と思ったが振り返って笑顔を返した。同じ授業を取っているだけの他人。

「本当は全休なんだけど、博士のフィールドワークの付き合いで……あ、お前課題やったの?」

「やってねえ! 写させて! ほんとあの教授課題多すぎなんだよな……」

「分かる、めんどいよな。俺はもう提出したけど」

「さっすが優等生さま。で、その博士はどこいんの?」

「今は研究所で教授と話してる。パシリで飲み物買いに来た」

「うへ……よく研究助手やる気になったな。給料良いの?」

「普通のアルバイト三つ掛け持ちしても足りないだろうな」

「まじかよ……今月金無いんだよね。つかライネリオも飲み来いよ?」

「行く行く。博士待たせてるからもう行くよ」

「行くってそっちかよ!」

 けらけらと笑って肩を叩き、別れて売店に入る。

「……はあ」

 疲れる、苛立つ。こんな不毛な会話を、俺はいつまで続ければ良いんだろう。そう思うのにもはや癖づいたこれはやめることができなかった。

 頭の悪い人間や気の合わない人間のレベルまで自分を落として会話をする。こんなことに意味も価値も無いと分かっているのに。

 課題をやるのは当たり前のことだ。遅刻欠席はしないのが普通だ。それだけで優等生だと揶揄されるのなら、いっそのこと不真面目になれば会話もしやすくなるのだろうか。

 コーヒーを二つ注文して売店を後にする。冷めない内に博士と教授の元へ持っていかなくてはいけない、と思うのに足が上手く動かなかった。

 俺は人と深く関わることができない。本当の意味での友人なんて今までできた試しがなかった。家族と過ごす時間でさえ時に「営業」だと感じることがある。自分の感情をそのまま相手に見せることも、本心を晒け出すことも、俺には恐ろしくて到底できそうにない。相手だってきっと同じだ、という期待が常にあった。俺のように思考を重ねて相手の感情を察し俺に合わせているのだと。そうだったらいいのに、みんなも俺と同じように悩んでいればいいのに。

 サリーニ博士は人と関わるのが苦手なわけでも、ましてや人を嫌っているとも思えない。いや、最初はそうだと思っていた。だから勝手に親近感を覚えていた。でも俺とは違うんだ。

 遅くなっては怒られてしまう。コーヒーを持ち直してエレベーターのボタンを押すと、四階から三、二、一。ベルが鳴りドアが開くとそこにいたのは。

「え、サリーニ博士」

「まさか君は自分の大学で迷子になったわけじゃないだろうな。もう話は終わったから、そのコーヒーは二人で飲もう」

「すみません、知り合いに声を掛けられてしまって」

 機嫌が悪いようには見えなかったが、辟易としている様子だ。博士はエントランスに向かいながら端末を取り出して何か操作し、画面から目を離さずに口を動かす。

「そうだろうと思ったよ。次はコラール自然公園に行くが、……」

 言いかけたまま立ち止まって博士は俺の顔を訝しげにじっと見た。

「な……何ですか」

 博士は差し出したコーヒーを受け取りつつ言う。

「顔色が悪い。僕の体調にはうるさいくせして自分のことはおざなりじゃ話にならないよ」

 溜息を吐いて再び歩き始めた。そんなに顔に出ていたなんて。

「すみません、気を付けます」

「……体調が悪いのなら家まで送る。慣れない徹夜で身体に疲労が蓄積しているんだろう」

 散歩の口実でしかないからね、と博士は零す。ここで帰って心配をかけてはいけない。

「大丈夫ですよ。それより、博士はうちの大学のレストランに行ったことありますか?」

「無いが……そろそろ一時か。寄ってから……いや、そうだな。……折角だから寄ろうか」

 ああ、良かった。話題が逸れた。ほっとして、しかし同時に自分の傲慢に気がついて悪寒が襲う。

 俺は本音を言おうとしないくせに、博士の本音が知りたいなんて。そんな傲慢、許されない。

「大学にいるのに博士がいるなんて不思議な感覚です。慣れませんね」

「僕の講義を受けたこともあるのにまだそんなことを言うのか」

 結晶現象学を学ぶ上で、こうして博士の近くで色々な経験をさせてもらえること。嬉しいはずなのに、気疲れが肩に重くのしかかっていた。

「講義が終わったあとの空気、博士はご存知ないでしょう。凄かったんですよ、女の子が集まって」

「そういうのは不老不死の魔法使いにでも言ってやったらいい。僕は受け付けないよ」

「たしかに、あの人は講義の後に平気な顔で握手会をしてそうですね」

 どれだけ心の中がぐちゃぐちゃとしていたって、笑える。話せる。大丈夫だ。

 ロケ博士の元で研究助手をするつもりは無いし、給料が三倍になろうと五倍になろうと俺の学びたいことは結晶現象学ただ一つだ。

 鉱物が好きで、結晶が好きで、結晶現象学が好きで。しかしそれだけのことを理由にこの道を進んで良いのか俺には分からない。俺が助手を続けても良いのか、まだ、俺は悩んでいる。

「あっちへ戻ったら来週の会合で使う資料を作りたいんだが、六時には帰るだろう?」

「俺は何時まででも構いませんが、博士もたまには長く眠りたいでしょうから今日は六時に失礼しますね」

 大学を卒業しても、博士は研究助手研修を続けてくれるだろうか。その間、俺はずっと笑顔でいられるのだろうか。

 何もかもが不安だらけだ。そして潰えることのない博士への疑念ともどかしさも、徐々に俺を蝕んでいく。

2023年3月