phase3 驕り

 眠れないとばかり思っていたが、翌朝、窓の外で鳴く美しい鳥の歌声で目を覚ました。ハイメにとってそれは喜ばしいものではなかったが。

 ベッドから出ると多少身体に重怠さはあったものの、昨夜の胸の不快感はどこかへ消えていた。

 脇に置かれた椅子の上には、やはり綺麗に畳まれた上着がある。夜中、あるいは早朝に部屋に来てモニカが畳んでいるのだろう。

「余計なことしやがって……」

 聞いているはずも無いが、ハイメは独りごちて立ち上がった。

 部屋を出るが、今日はオルガンの音は聞こえてこない。教会は静まり返っている。

 モニカの治療の甲斐もあってか、左足の痛みは徐々に和らいでいた。部屋を移動し、モニカがいるだろう食事部屋へと移動する。ぎ、ぎ、と煩い音を立てながら扉を開くも、ハイメは拍子抜けした。そこには誰もいない。

 テーブルにはプレートが置いてあり、昨晩までと同様、「砂糖がけのパン」が乗せられて食べられるのを待っている。

 近づけば、その隣に小さな紙の切れ端があることが分かった。しゃんとした、形の良い字が並べられている。

『甘いけれど、どうぞ食べてください。』

 パンの他にはベーコンを焼いたものと、オニオンスープらしいものが添えられてあった。

 ハイメは紙切れとパンとを交互に見て、それからメモをポケットへ丸めて入れた。他にメモは見当たらなく、モニカがどこにいるかは分からなかったが、食べられるうちに食べておかなければ。呑気に過ごしている余裕なんて無いとハイメは言い聞かせたが、しかし休息が必要であることもまた、自分に言い聞かせた。

 どさりと椅子へ腰を降ろすと、まずはスープを口へ運ぶ。

 薄切りの玉葱の甘さ、塩コショウのバランスがちょうどハイメの好みで、それまで感じていなかった食欲を起こすには充分過ぎるほどだった。炒め玉葱を乗せトーストしたパンが、角切りでスープに浮かんでいる。冷えていたが、ハイメにはそれが気にならなかった。

「塩辛いもんも作れんじゃねえか」

 悪態をつきながらベーコンを口にすると、久しぶりの肉の味をよく噛み締める。ハイメはしっかりと一切れの甘いパンをも平らげた。

 椅子に背を預けると、溜息が零れる。

 そろそろここを出て、どこか別の場所を探さなくてはいけない。それが具体的にどこなのか、どうやって行くのか、いつ行くのか。そんなことはハイメには分からない。それでも、ハイメの胸中では、「早く遠くへ逃げなければ」という漠然とした憂慮と焦燥の思いがあった。同時に、ここを出ることのリスクも、頭の片隅に存在している。

 ハイメはモニカのことを信頼しているわけでも、心を許しているわけでもなかった。それはハイメの元来の、人間に対する嫌悪感や不信感から成るものだ。裏切られることを前提に考えて動くことが、一番傷つかなくて済む方法。今までハイメは、そうして裏切ってきた人間の、息の根を止めることによって自分自身を救済してきた。左足を撃たれた日――三日前まで、当然のように繰り返してきた日常だった。

「…………チッ」

 どうしようもない苛立ちに、ハイメは机を叩いた。がちゃん、と皿の擦れる高い音が狭い部屋で反響する。そんなことをしたところで胸の霧が晴れることはないと、ハイメは自分への怒りで握った拳を震わせた。

「ちゃんと食べてくれたんですね、うふふ」

「ぅわ、!」

 ハイメは小さく声を漏らしたが、運良くモニカにそれは聞き取られなかったようだ。す、と顔を顰めて舌打ちをする。

「音立てて入ってこいよ、つかどこ行ってたんだよ」

「音は立ててたけれど」

 モニカは両手で大きな紙袋を抱え込んでいた。それをテーブルへと降ろすと、中から芋や人参など食材が転がり出る。

「なにか考え事?」

 問われ、しかしハイメは口を開かなかった。モニカは被っていたケープを脱ぐと椅子にふわりと掛け、ハイメがそのままにしていた空の皿を下げた。

「お腹はいっぱいになりましたか?」

「ん。美味かった」

 ぶっきらぼうに告げたものの、それはモニカにとって幸福たる報告だった。

「よかった!」

 幸せそうに目を細めるモニカからハイメは目を逸らす。

「お前なんでこんなとこに住んでんだよ」

 いつもの威圧的な声ではなく、落ち着いた声だった。モニカは野菜を丁寧に仕舞いながら、「気になりますか」と呟く。

「親……とか、いんだろ」

 怒気を含んだ声だったが、モニカは臆することなく返事をした。その顔は笑顔のまま。

「いないの」

 もしかしたら、いや、そうだったら嫌だ。と、ハイメが思っていたことをまさにモニカは言った。

「ワタシのことなんて、興味ないと思っていたのに」

「興味もクソも、ねえよ別に」

「聞いてくれるなら」

 かたん、と音を立てて、温かなミルクが差し出される。モニカは笑った。

「聞いてくれませんか?」

 ブラウスの赤いリボンをするりと解く。

「は? おい」

 ボタンをひとつ、ふたつ、と開けると、ハイメは顔を逸らして目を瞑った。モニカは静かに呟く。

「見てください」

「馬鹿か? やっぱ砂糖の摂りすぎで馬鹿になってんだろ、」

「ちがいます、見て」

 腕を引っ張られ、否応なしに視線を向けさせられる。と、きら、と何かが光った。

「……?」

 光ったのはネックレスだった。細いチェーンの真ん中には、所々が欠けた――石?

「顔も知らないけれど、お父さんお母さんからのプレゼントなんです」

 ネックレスを外すと、その石が当たっていたらしい胸元が傷だらけになっているのが見える。

「……怪我、してんじゃねえか」

「欠けて尖ってるから、擦れると引っ掻き傷みたいに」

 言いながら生々しい傷を指でなぞる。

「お父さんもお母さんも、今どうしてるか分からないんです。ワタシの一番古い記憶はここで泣いたこと。ひとりでわんわん泣いていたの」

 モニカはネックレスをゆっくりと丁寧に着け、ボタンを閉めてリボンを結び直す。その動作は「奇麗」そのもので。

「……どうしてここで泣いていたのかも、どうやって泣き止んだのかも、全部覚えてないんです。可笑しいでしょう? じぶんのことなのに」

 身嗜みを整えたモニカはうふふ、と笑った。ハイメの目の奥に真剣さを見て、モニカはミルクを啜る。

「ワタシ、あまり物覚えがよくないみたい」

「物覚えの良い悪いで済む話かよ」

 ハイメの言葉にくす、と笑ってモニカは胸に手を添えた。

「ネックレスを外すと、どうしてか、すこし……不安な気持ちになるんです。だから傷が増えても、外せないの」 

 枷のようだ、とハイメは思った。

 モニカは身を乗り出すと、ハイメの手の上に自分の手を重ねて小首を傾げた。

「アナタの名前、まだ聞いてません」

「どうだって良いだろ。つか、はぐらかすなよ」

 顔を逸らすも手を優しく握られ、ハイメは酷く小さな声で呟いた。

「……ハイメ」

「それって苗字? お名前?」

「るせえな。苗字だよ」

「ハイメ……」

 モニカは口の中でそれを反芻する。ハイメは自分のことが信じられなかった。殺しを生業とする者が、名前を教えるなんて。

「アナタのこと、もっと教えて」

 その瞳は煌めきに満ちている。ハイメは冷や汗がじわりと滲むのを感じた。話したい、話せない。言えない、いや、でも。もしも話して、それを聞いたモニカが逃げ出したら?

 モニカはにこりと笑って促した。

「…………」

 逃げるようなら、その時は――殺せば良いだけだ。

 口を開こうとして、ふと胸の中を刃物が掠めたような気持ちに襲われる。それでも言葉を紡ごうとするのは、ハイメが抱く解放への切望なのかもしれない。 

「……俺も親が、いない」

 目の前で親が死んでいくのを見た。気が付いたら誰かに抱きかかえられて、その場を離れた。俺を拾ってくれた男に育てられて、四年前にそいつが死んだ。

「……終わりだよ」

 顔を逸らして、掴まれていた手を振り払った。モニカは沈黙したままでいる。

「なんだよ。なんか言えよ気持ち悪い」

「……辛かったでしょう」

 モニカの言葉は鋭利だった。心を溶かす温かな言葉? 違う、これは刃だ。慈愛の目が更にハイメの身体を切り裂いて風穴を空けていく。

「辛くなんかねえ、……っやめろ! ……そんな目で見るなよ!」

 立ち上がり、だん、と机を叩いたハイメに、モニカは何の言葉もかけない。頬を伝い落ちた雫を、モニカは指で拭おうとしたがその手を叩き落とされた。

 ハイメはこの日、夜になっても寝室から出て来なかった。