過去なんかどうでも良い。過ぎたことはもう取り返せない。そう思っていたって、一度過去に取り憑かれた者は、そう簡単には逃げられない。
薄暗い寝室。ハイメは寝心地の悪いベッドに身体を横たえ、目を瞑ることもできずに煩悶とした気持ちを抱えていた。
太陽は沈み、月が昇る。夜が更けていく。ハイメは窓に背を向けた。
自分の生きてきた経緯、その足跡を誰かに見せるなんて危険なことを、自ら犯してしまった。たった三日やそこら、勝手に世話をしてきただけの人間に、自分の過去を話そうだなんて。自分も乗り越えられていない過去を、人に話そうだなんて。
そんな馬鹿な話はない。
頭の中でぐるぐると言葉が巡る。ハイメがよく経験する感覚だった。色々な感情が、心臓の辺りで蠢いて、それは酷く気持ちが悪い。そこから抜け出す時、ハイメはいつも、「仕事」に没頭した。警察に顔を見られてしまった今となっては、わざわざ痛む左足を引き摺ってでも依頼を受けに行こうとは思えない。
「……はあ」
どうして話そうなどと思ったのか。
話して楽になってしまいたかった。
どうして名前を教えてしまったのか。
俺の名前を知っていてほしかった。
どうして本当のことを、全ては話さなかったのか。
「…………クソ、クソっ、……!」
頭を掻き毟った。こんな思いをするくらいなら、出会った日に殺しておけばよかったんだ。
唇を噛むと、がり、と音がして鉄の味が口の中に広がる。血液混じりの唾液を床に吐き出した。
「…………っ」
俺が殺人犯だと知ったら、あいつはどう思う?
◇◇◇
これは雪? それとも雨?
どちらかは分からなかった。ただただ、手足がとても冷えている。目の前には誰かが二人並んで寝転がっていて、それを囲うように、真っ赤な液体が広がっていた。
――これはだれ?
見たことがある気がする、でも誰か分からない。呆然として立ち尽くす俺を、知らない男の人が抱きかかえた。
「お前は今日から俺の子だ」
かさついた低い声と、妙に傷が多い腕に何となく違和感に近いものを覚える。誰なんだよ、俺の子ってどういうことなんだよ。
「とりあえず、ナイフの使い方は覚えないとな」
だから誰なんだよ、お前。そう思いながらぼうっと立っていると、肩を掴まれて何かを握らされる。
「さっさとやれよ」
にこやかに言う、しかし掴まれている肩は千切れるんじゃないかと思うほど痛い。
目の前にはネズミが、尻尾をピンで留められて動けずにもがいている。この、笑っている男の意図することが分かって、俺は。
「大丈夫だ、救ってやるとでも思って」
「いやだ……」
首を振る。
「一発でやれば、苦しくないんだ」
「いやだ……っ」
「こうやって」
男の手が俺の手を掴んで振り下ろす。
「嫌だッ!!」
ちか、ちか、と目の前が光る。ぼやけていて何も見えない。ああ、そうか。これは。
「……はあっ……は……」
悪夢だ、また。同じ夢を繰り返し見ている。ハイメは勢い良く起き上がったせいで血の気が引いていた。警察の次は「これ」か。
窓の外は少し白み始めている。
ベッドに潜り、深くシーツを被った。薄手のシーツ。しかし今、ハイメにとっては何か握れるものがあるだけで有り難かった。
手の震えと脂汗が止まらないのは、今回が初めてではない。体調を崩した時や、気分が優れない日には決まってこの夢を見た。
固く目を瞑り、シーツを握り締める。
はやくどこか遠い場所へ、誰も知らない場所へ。
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