大通りに面した古い建物、狭い一室。シェルシェの一件が片づき、二人の部屋も少しずつ片づいてきた。あれから二週間も経っているのだからむしろ、片づいていない方がおかしいくらいで。
ドルチェは優雅に紅茶を啜り、シャルフは皿を洗っていた。特に物騒な話も聞かないし、そう毎日依頼が来るはずもない。平和な日常だ。
「…………シャルフ」
「ん?」
丁度皿を洗い終えたシャルフにドルチェが声をかけた。
「私たち、何をするためにここにいるか貴方は分かってる?」
「は、そりゃ……」
布巾を手に持ちシャルフが固まる。ドルチェは静かにティーカップを置いた。
「た、ん、て、い。事件を解決するためにここに来たのよ!」
「ああ、そんなことも言ってたな」
へらりと笑ってソファに腰掛けるシャルフ。
「この平和な時代に事件を解決ったって、なぁ」
「それなら貴方がここにいる意味も私がここにいる意味も無いわけね。私はお父様の元へ戻って、貴方は雨ざらしに戻るの」
「ちょ、ちょっと待て、そうは言ってないだろ」
「でも探偵をする必要が無いとなれば私は屋敷に戻るしかないじゃない。違うの?」
「分かった分かった、前言撤回するよ。ったく、本当に肝が冷えるな」
困ったように肩を竦めてシャルフはソファにもたれかかった。
ドルチェは立ち上がって、サイドテーブルに置いていた手帳を手に外へ向かう支度を始めた。シャルフがそれを見てエプロンを外しソファにそれをかけて、支度を終えたドルチェの後ろにつく。
「……で、支度したは良いが、まだ十一時だぞ。どこ行くんだ?」
「仕事は待ってても来ないのよ、常識でしょう?」
「……そうですね……」
もっともなことを言われ、シャルフはそれ以上何も言わなかった。ドルチェが扉に手をかけ、外に出る。ふと横を見ると、ポストには手紙が入っていた。
「あら? 珍しいわね」
す、と取り、差出人を見てみると「Crown・Chagrin」と書いてある。
「知ってる奴?」
「いいえ、知らないわ。ただ、この名前……」
見たことがある気がする、とドルチェが言いながら蝋で封をされた手紙を開く。黙読を始めるドルチェの目線に合わせてシャルフは屈んだが、すぐに姿勢を元に戻した。
「読みにくい、読み上げてくれ」
シャルフの言葉に一瞬ドルチェは面倒臭そうに顔を上げた、だが咳払いをして読み上げる。
「……ドルチェ・アメール様。
突然手紙を送る御無礼をお許しください。私は足が悪く、そちらまで出向くことが叶わず遣いの者にこの手紙を届けさせました。
さて、本題ですが。アメール様はとても有能な、賢い女性であるとお聞きしております。そこで依頼を一つお願いしたい。ただ、手紙という形でお伝えするには私の都合というものもありますので、大変失礼ではありますが、住所を記しておきますのでこちらに来ていただきたい。報酬は貴女様の望むものを望むだけ差し上げます」
そこまで読んだところでシャルフが口を挟んだ。
「望むものを望むだけだって? 随分太っ腹だな」
「まだ続きがあるわ、
……ただし、私の納得のいく形で解決していただきたく。そこは了承願います、賢いアメール様ならばご理解いただけると思いますが。では、本日の十二時に屋敷にてお待ちしております……だそうよ。あとは住所と、近所の地図が書いてあるわね」
「へえ……おいしい話だが、なんか鼻につく書き方だな。気にならないか?」
「確かに、少し嫌味っぽいわね。足が悪いと書いてあるし、ご老人なのかも知れないわ」
ドルチェは住所を手帳に書きとると手紙を封筒に仕舞い、地図を広げた。
「二番街なら、ここからだと……大体三十五分くらいかしら。歩けるわよね?」
「ん? ああ、俺は平気だ」
「それなら、もう行きましょう。待たせてしまっては怒られそうだわ」
厚底の靴がレンガに当たり音を立てる。
「なあ、どうでも良いんだけど、探偵やってるのはお前と俺だよな? さっきの手紙に俺の名前が無かった気が」
「さあね」
答えるのが面倒だと言わんばかりに、ドルチェは笑って先を急いだ。
○●○●○
三十五分かかると見積もって歩いていたが、ドルチェは自分の身長と歩幅を計算に入れていなかった。結局十二時より五分前、間際に屋敷の前に到着した。──シャルフが道に迷ったことも、もちろんタイムロスの原因だ。
屋敷は二番街のどの家よりも大きな敷地面積で、門にも細かい装飾がなされている。玄関に辿り着くまでかなりの距離、目測ではあるが五百メートル以上はありそうだ。
門の横、呼び出す為のブザーを見つけて早速それを鳴らしてみたが、全く反応が見られない。
「ここで合ってるのか?」
「間違いないわ。……おかしいわね」
もう一度鳴らし、少し待つ。しかしやはり、何の反応も見られなかった。ドルチェが逡巡の後、門に手をかけ、シャルフを振り返る。
「……許可は得てないけれど許されるでしょう」
「本気か?」
シャルフの言葉に頷いて、ドルチェは門を押して開くと、するりと中に入った。慌ててシャルフもそれに続く。
入ってみるとより広い敷地にシャルフは圧倒された。周りを見回しつつ進む。中庭は薔薇が植えてあり、花は咲いていなくとも、葉を見てドルチェにはそれが分かった。
「広いな……シェルシェとフレールが走りまわったら見つけられないかもな」
シャルフがきょろきょろと周りを見ながら感心したように言うのを半分聞き、ドルチェは思索に耽る。しばらくして、ドルチェが口を開いた。
「もしかして、と思ったのだけれど、ここへ来て確信したわ。シャルフ、」
「うん?」
「シャグランと聞いて何か思いつくことは?」
「んー……」
シャルフは二の句が継げないだろうと察したドルチェが、周りを見渡しながら言った。
「アシル・シャグランという名前を聞いたことがある? 色々な場所に別荘を立てその度にニュースになっているわね。アシル氏をはじめとして、シャグラン家は有名な血筋で今も血縁者から何人も政治家や企業のトップを排出している……手紙の差出人を見て一番に思い浮かんだわ。アシル氏、彼には二人の息子がいるはずよ。たしか長男の名前は……」
「クラウン・シャグランだって言うのか?」
「そうよ。けれど二番街に大きな屋敷があったなんて、どうして私が知らなかったのかしら? それに、彼の息子なら尚更、ここに住んでいることくらい周知されても良いはずなのに」
「クラウン・シャグランなんて名前、あんまり聞き覚えが無いな。その程度ってことだろ」
「それにしたって、あまりにずさんな管理体制ね。庭も雑草だらけで一切剪定がなされていないし、門番や案内の者がいないのはおかしいわ。どうしてかしら……」
ドルチェが顔をしかめながら話し、もうすぐ玄関に着くというところで、ちょうど前を向き直ると扉が気怠そうに低い音を立ててゆっくりと開いていく。
中から険しい顔を覗かせたのはメイドでもなんでもなく、艶のある赤い髪の若い男だった。肩まで伸ばされた髪は不格好では決してなく、それどころか男性でありながら美しさがそこにはある。目尻が緩く下がっており、泣きぼくろが髪の隙間から見え隠れしていた。
男は杖を持っていない右手を軽く胸に当て、二段ほど上がった玄関から二人を見下ろしながら言った。
「ろくな出迎えも無く大変失礼した。足が悪いもので、ブザーが鳴るのを聞いてからここへ来るまでに貧相な私の庭を見学させてしまう程度には時間がかかってしまった。ところで聞きたいのだが、ドルチェ・アメール様はどちらに? あなたたちは見送りの方だろうか」
男は終始ドルチェの方を見て話していたが、最後にちらりとシャルフを見た。ドルチェは無自覚であったがその男の顔をじっと見つめていて、はっとしてスカートをつまみ上げお辞儀をすると自己紹介をする。
「……ご依頼ありがとうございます、ドルチェ・アメールというのは私のことです。横にいる大男はシャルフ・ブラント、私の頼もしい相棒です」
極めて丁寧に、落ち着いたトーンでドルチェが言うと男は驚いたように目を細めた。シャルフにも自己紹介をするよう促すと、目に見えて不機嫌なシャルフは男の顔も見ずに「シャルフだ。大男じゃない」と素っ気なく言う。ドルチェはシャルフの異変を感じつつ男に尋ねた。
「貴方は依頼人のクラウン・シャグラン様でしょうか?」
「見ての通り。それはともかく、まさか、こんなに小さいお方がドルチェ・アメール様本人で? 失礼だがおいくつかな?」
ドルチェは一瞬、本当に失礼だなと思ったが、口には出さず質問に質問を返した。
「失礼ですけれど、シャグラン様はおいくつで? とてもお若く見えます」
「私の歳を聞いてどうする? ……二十三だが、それが何か」
「いいえ、気になったものですから。先の質問ですけれど、私は十四歳になりました」
ドルチェの歳を聞いてクラウンは目を丸くした。身長が小さいだけで、年齢は十六、七はあると思っていたからだ。
「なるほど、小さいのに賢い方だ。……ボディガードまでつけて出歩くなんて、きっと相当なご身分のお方で」
ドルチェを馬鹿にしたような、明らかな悪意にシャルフは思わず笑いが込み上げた。
「……女性に年齢を聞いたり年上に向かってボディガード呼ばわり、きっと俺には理解できないようなハイレベルな教育を受けたんだなぁ、感心する」
「……何だと?」
「シャルフ、失礼よ」
ドルチェは小声で言ったが、シャルフはクラウンに一歩近づいて続ける。
「突然自分の屋敷に呼びつけて? 出迎えの者もなく? やっと出てきたら嫌味のオンパレード。良いご身分ですね、シャグラン様?」
は、と笑い飛ばしてシャルフは顔を背けた。ドルチェは珍しく語気の強い怒りを露わにしたシャルフに驚いたが、踵を返そうとしたシャルフの手を掴んだ。
「待ちなさい、まだ話を聞いていないでしょう」
「そんなにこいつが気に入ったんなら、お前が引き受けたらいい。俺はやらない」
シャルフの言葉に、クラウンが大きな声で笑う。
「まるで我儘な子供のようだな! ああ、依頼する人間を間違えた私が馬鹿だったよ」
もう帰ってくれ、とクラウンはドアノブを握り、扉を閉めようとした。ドルチェはシャルフの腕を強引に持って、閉まりかけた扉に足を挟む。バランスを崩したシャルフは段差に寝転ぶようにして倒れこんだ。
「申し訳ありません、シャルフは今日少し虫の居所が悪いようで」
「帰ってくれ。顔も見たくない」
「……我儘な子供はどっちだよ」
「シャルフ!」
埒が明かないと判断したドルチェは、シャルフを掴んでいた手を離して屋敷に半ば無理やり入った。クラウンは驚いて扉を開けてしまう。しかし一番驚いているのはシャルフの方だった。
「ドルチェ、お前」
「来るの? 来ないの? 早く決めてちょうだい。来ないなら報酬は全部私のものよ」
報酬と聞いてシャルフはぴくりと反応した。それに加えて朝の言葉が思い出される。雨ざらしに戻るのは勘弁だ。ここで従わなければ家を追い出されるかも知れない。でもこの男の依頼を引き受けるのは嫌だ。
「どうするの?」
追い打ちをかけるように問われる。シャルフは心底乗り気じゃなかったが、大きく溜息を吐いてゆっくり立ち上がった。ドルチェを気に入らない男と二人きりにするのは癪だからだ。服を手で払いながら中に入ろうとする。
と、そこでクラウンが余計な一言を口にした。
「その服で中に入ろうとしてるのか?」
「悪いか? ああ、なら、全部脱いで入ってもいいんだぞ」
シャルフが上着のベルトに手をかけたところで、ドルチェの鋭い視線を感じたクラウンは咳払いをして屋敷の奥へ、ゆっくりと杖をつきながら歩いた。シャルフの脇腹を小突いて、ドルチェが小声で言う。
「どうしたのよ、突然そんな態度で。貴方らしくないわ」
「別に? さっさとカタつけて帰ろう」
大きな相棒がこんなにも依頼人に嫌悪感を剥き出しにするのはどうしてなのか、ドルチェは必死に考えていたのだが答えは浮かばなかった。会話も無く屋敷の中を歩いていく。
クラウンは階段に着くと、一段一段慎重な足取りで上っていった。右手は手すりを、左手は杖をしっかりと握っている。二人はクラウンを見守るような形で一歩後ろを歩いていたが、ふと、クラウンの身体が傾いた時。ドルチェが差し出した手を、クラウンは跳ね除けた。パチン、と音が響く。
「やめろッ!」
大きな声で拒絶され驚いたドルチェがよろめき、それをシャルフが支えるのを見て、やってしまった、と後悔と驚きの入り交じった目がドルチェを見た。しかしすぐに目を逸らすと、小さく呟く。
「……手伝いは不要だ。そこまで落ちぶれてはいない」
クラウンのその様子から、ドルチェは何も言わず後ろをついて行った。
三人が着いた、客間になっているらしいその部屋はかなり煌びやかだったが、どこか薄暗く綺麗だという印象は受けなかった。屋敷の中に入ったときにも思ったがどこも埃が積もっていて生活感が無い。この客間も、つい最近慌てて片付けたような雰囲気があった。
革張りのソファに対面に座ると、クラウンは少し息が上がっているように見えた。表情を変えずに淡々とクラウンは言う。
「わざわざ客間まで時間をかけて来させて申し訳無かったな。茶を淹れよう」
「いいえ、お構いなく」
「これは私がしたくてすることだ。暫し待っていろ」
クラウンは部屋を出た。シャルフが溜息を吐く。
「ほんと嫌になるな」
「何がそんなに気に入らないのよ?」
「全部だよ全部。何依頼されるか知らないけど、報酬ふんだくってやる」
不機嫌がすぐに顔に出るシャルフ、ドルチェも必死に取り繕ってはいたが気に障る部分は確かにあった。どんな依頼が待ち受けているかと思うと、クラウンのいない客間も緊張が走る。
しばらくしてクラウンは三つのカップとミルクポットを盆に乗せて部屋へ入った。その手に杖は持たれていない。手伝おうかと思ったドルチェだったが、先程のあの態度を思い返してやめた。
「待たせたな」
足を庇った歩き方にしては、クラウンの纏うその雰囲気からかどこか優雅に見えてしまう。
香りを楽しみミルクを注いで、ドルチェは淹れてもらった紅茶を一口啜った。
「……アッサムね?」
「ご名答。よくお分かりで」
ドルチェはクラウンが一口紅茶を啜ったのを見てから手帳を開き、改まってクラウンの名前を呼んだ。
「……クラウン・シャグラン様、」
と、それを遮ってクラウンは頭を振る。
「シャグランと呼ぶな、クラウンでいい。敬称も敬語も必要ない」
どうして? と聞き返したくなるのはドルチェの幼い癖のようなものだった。しかし堪えて素直に従う。
「では、クラウン。私のこともドルチェと呼んでちょうだい。始めに聞きたいのだけれど、貴方の父親はアシル・シャグラン氏で合っているかしら」
「……そうだが、それが何か」
「いいえ、有名な方の息子さんにご依頼を頂けるなんて光栄だわ」
「有名な人間の子供が有名とは限らないだろう。私に頼まれたからといって大して特別なことではない」
クラウンは誤魔化すように紅茶を飲む。ドルチェは取り直して、ペンを握った。
「早速、依頼の内容を聞きたいのだけれど」
「ああ、もちろんだ。……もう一時か。食事をしながら話すことにしよう。すまないが客人が来るのはかなり久しぶりのことでね。不慣れなのだ」
そう言うと、杖を持ち立ち上がって壁を伝い電話を手にする。電話の向こうへ何かを話した。
「……食事を注文したの?」
「そうだが?」
「メイドに頼めば良いんじゃないか。足が悪いなら尚更」
「…………」
クラウンは黙って目線を落とした。聞いてはいけないことだったらしい。
しかしそれが依頼に関係あるのかも知れない、とドルチェが思った時。クラウンは咳払いをして話を始めた。
「……ドルチェ、それからシャルフ。二人にこんな所まで来てもらったのは頼みたいことがあったからなわけだが、あなた方はどんな内容でも引き受けてくれるのだろうか」
「どんな内容でも?」
ドルチェが聞き返すと、クラウンはとても深刻な顔で言った。
「……ここの屋敷の掃除を、頼みたい」
「掃除だって?」
シャルフが大声で言う。ドルチェがシャルフの太ももを叩いて、クラウンの話の続きを促した。
「掃除というのは、具体的に……」
「それもきちんと説明する。……もう料理が届くはずだ。まあ、詫びと思って遠慮なく食べてほしい」
クラウンが言うと、コンコン、と扉をノックする音。振り返ると、次々料理が運ばれてきた。
「いつもご苦労。料理はここへ」
テーブルに豪華な料理が並べられていく。全ての料理が揃うと、クラウンは二人に食べるように促した。
シャルフは初め、クラウンの金で用意された料理に手をつけることが躊躇われたが、ドルチェがそれを分かっていたかのように目配せをした。仕方なくナイフを握る。
腹は減っているのに、シャルフはあまり食が進まなかった。ドルチェは好物であるガレットや鴨のコンフィを、大事に美味しそうに食べていく。
「……この屋敷は広い。もう分かるとは思うが、私一人では掃除はもちろん、一日かかっても全ての部屋は廻れないだろう。メイドは昔はいたが……今は全て解雇した。いや、解雇されたという方が正しいか。ともかく、もうここ数年まともに掃除ができていない」
「どうしてメイドは解雇されてしまったの?」
思わず聞いてしまったドルチェの言葉にぴくりと反応したクラウンだったが、しばらくの沈黙の末に「それは、話せない」と短く言った。それなら、とドルチェが質問を変える。
「掃除なら、そういった業種の人間に頼めば良かったのではなくて?」
「それはとっくに。しかしこの屋敷に来るなり断られてしまう。シャグラン様の屋敷に私なんかが踏み入れない、などと言って帰ってしまった。埃は毎日積もっていくし、蜘蛛の巣が張っている場所も何ヶ所かあった。掃除をしたいと思いつつ、身体が思うように動いてくれないのでね。報酬なら、ドルチェの……ドルチェとシャルフの望むものを望むだけ与えたい。……引き受けてくれるだろうか」
クラウンは持っていたナイフとフォークを置いた。ドルチェとシャルフも手を止める。ドルチェが、依頼を引き受けると言おうとした瞬間、それを止めてシャルフが口を出した。
「……何か勘違いをしてないか? 俺とドルチェは“探偵”だ。何でも屋じゃない、まずはそこを履き違えないでもらえるか」
「…………」
「メイドがいない理由を話せないのはどうしてだ? お前のプライベートなんてこっちは知ったこっちゃないが、依頼をする以上ドルチェの質問に答えるくらいはしても良いだろ。大体、俺はお前の────」
「シャルフ、落ち着きなさい」
ドルチェの澄んだ声が響いた。シャルフは我に返ってクラウンを見ると、苦しげに目を逸らしている。シャルフは眉間に寄せた皺と、テーブルを叩こうとして握った拳を緩め、そして静かに呟く。
「……俺は引き受けられない。報酬もいらない、先に帰る」
「待って、掃除はしなくても構わないわ。ここにいなさい」
「どこに行ったって俺の……」
そこまで言ってから、は、と何かに気がついたように目を見開いて、それから頭を振った。
「……いや、分かった。ここにいてやる」
突然の心変わりにドルチェはもちろん、クラウンも驚いてシャルフの顔を見た。その代わり、とシャルフは続ける。
「報酬はきっちりもらうぞ。いいな」
「もちろんだ。構わない」
「……クラウン、来た時からの随分な失礼を詫びるわ。この依頼、引き受けましょう」
「……有難い、助かる」
まだ重苦しく苦味の残るその空気にドルチェはどうにか打破しなければ、と頭を悩ませた。
この状態、掃除は上手く行くとして、きっと両者にわだかまりが残ってしまう。もう依頼をしてこない可能性もある、それにしても、こんな関係のまま今回の仕事を進めるのはドルチェとしても気まずいものがあった。
食事は静かに、重々しく続く。と、その時、ドルチェは自分の取り皿に大嫌いなエスカルゴが乗っていることに気がついた。それをそっと、あたかも当然のことかのようにシャルフの取り皿へ乗せる。
「……好き嫌いするなよ、ドルチェ」
「え?」
ほとんど無意識だったその行為。ドルチェが首を傾げると、それを見てシャルフは堪えず笑いが零れた。
「何よ、どうして笑うの?」
「いいや、何でもない」
沈みこんだ重い空気は、ドルチェの年相応な、何の工作もない行動からゆっくりと抜けていった。
済んだ食器は台車に乗せて廊下へ。早速掃除を始めるのに、まずは閉じられたままの窓をドルチェとシャルフが協力して一部屋一部屋開けていった。クラウンは二人の後ろをついて歩きながら、掃除をしてもらいたい箇所や整理の方法などを指示する。
「それはその棚の上に、箱はテーブルの下へしまっておいてくれ」
「ったく……」
文句を言いつつ、シャルフは真面目に動いた。クラウンも、初対面のあの嫌味っぽさは表に出ることが無くなってきている。
「……そこにまだ埃が残っている」
「最後に水拭きと乾拭きするから良いんだよ」
至って普通に会話をしている、それを見てドルチェは少し安心した気持ちになっていた。開け放った窓から外を見ていると、視界に映る窓の汚れ。
「クラウン、窓を拭く為の物はどこかにあるかしら」
「ああ……私は使ったことが無いから分からないが、メイドの使っていた部屋になら置いてあるはずだ」
「じゃあ俺が取ってくる。ドルチェは掃き掃除しててくれ」
そう言ってシャルフが部屋を出ると、ドルチェはふっと笑いが零れた。クラウンが不思議そうにそれを見る。
「何か面白いことでも?」
「いいえ、そうではないけれど。……シャルフの意外な一面を垣間見たと思って」
「意外? ……見たままの性格だと思っていたのだが」
「そんなことないわ。シャルフは優しいし、ほとんどのことに寛容よ。声を荒らげるところなんて、見たことが無いもの」
「…………」
バタン、と大きく音を立ててシャルフが大荷物を抱えて部屋に入った。
「はあ……ここ、本当に広いな……」
「速かったわね、ご苦労様。そんなに大荷物になると知っていたら手伝ったのだけれど」
「いや……それは別に大したこと無いが、それより……残り何部屋やらせるつもりなんだ……?」
掃除道具を床に置くと、シャルフは息を吐いて腰に手を当てる。クラウンは顎に手を当てて考え込み、あっけらかんと答えた。
「少なくとも三十部屋以上はまだ残ってるな」
「……ふざけてる……」
心の底から面倒臭そうにシャルフは言ったが、その手にはしっかりと布巾が握られていた。
○●○●○
広い広い屋敷、二人で掃除をしても終わるはずもなく。一先ず二階の掃除が終わると、クラウンが外を見ながら言った。
「……休憩、しなくて平気なのか」
その言葉を待っていたかのように、シャルフは大きく息を吐いてその場に座り込む。ドルチェも小さく息を吐いた。その様子を見てクラウンが「今日はここまでにしよう」と提案する。二人も外を見ると、日が沈みきってとうとう夜に塗り替えられていくところだった。
「そうね、少し疲れてしまったわ」
素直に言うべきことを素直に言えるのはドルチェの良いところだ。クラウンは部屋を出ると、振り返って初めて笑顔を見せた。
「良ければ夕食も食べていってくれないか」
二人はクラウンのその優しげな表情に思わず一切の動作を止めてしまった。は、と気づいたクラウンが口元を手で覆う。羞恥で顔を赤らめたクラウンの言い訳を聞きながら、三人は客間で夕食を楽しんだ。
食事が終わるとすっかり夜も更けて星が見えており、シャルフがテーブルを綺麗にして席に着く。と、欠伸を零した。
「腹一杯食べたからかな、眠くなってくる」
「だらしないわね、子供じゃないのだから」
そう言いつつ、ドルチェもつられて小さく欠伸を零す。八時ともなれば、ドルチェはシャワーを済ませている頃だからだ。
クラウンは艶のある髪を掻きあげ、さて、と切り替えた。
「……もう遅い。ここに泊まっていくか、それとも帰るか選んでもらいたい。生憎部屋は余っているのでね」
「俺は帰って寝たい。何だか居心地が悪いしな」
「シャルフがそう言うなら、帰ることにするわ。せっかくの申し出だけれど」
「構わん、夜道に気をつけて帰ってくれ。狼が出ないとも限らないからな」
ちらりとシャルフを見て笑う。
「狼が出るってどういうことなの?」
ドルチェの真っ直ぐな目に何も言えず、シャルフはクラウンに言い返そうとしたが、適当にあしらって席を立った。
「では、明日は十時にこちらへ伺うわ」
「ああ。頼んだ」
クラウンも席を立ち、二人を見送ろうとした。しかしそれをドルチェが目で制す。軽く手を振り、二人は部屋を後にした。
▲▼▲▼▲
白と黒の探偵が出ていった客間はしんと静まり、テーブルの上では空になった皿が回収されるのを待っている。
本当に久しぶりの来客だった。料理を運んでくれる元メイドを除いて、来客など呼んだって来ない。窓から庭を見ると、楽しそうに談笑して歩く二人の背中が見えた。あんな風にお互いを理解し合う関係に憧れる、そんな気持ちも無いわけではない。
クラウンは左足を引きずりながら、客間の隣、メイドの使っていた部屋とは逆の部屋へと入った。ドルチェとシャルフは入らなかった部屋だ。一人用のベッドに、一人用のソファ。簡易的な照明に照らされて、天井に張った蜘蛛の巣が光っている。来客用の寝室が一番、今のクラウンには居心地の良いものだった。
好き好んで一人で住んでいるわけじゃない。
クラウンはベッドに寝転んだ。まだシャワーも済ませていないが、今はただ身体を沈めていたい。痛む左足に触れながら、来客の笑顔を思い出す。久しぶりに笑った。今日は、久しぶりのことが多すぎる。あんなに捻くれた言葉を投げつけてしまったのも、あんなに食事が楽しかったのも、本当に久しぶりのこと。
窓の外では欠けた月が爛々と輝いている。クラウンはそっと目を閉じた。
○●○●○
暗い夜道だったが、何事も無く狭い一室へ戻った。シャルフは上着をかけ、ソファに脱力する。ドルチェもソファへと腰掛けた。二人は労働から来る疲労と、それから気疲れによって黙り込んでいた。けれど、重くない沈黙。
その沈黙を先に破ったのはドルチェだった。
「……今日、どうしてあんなに機嫌が悪かったの?」
「ん? あー……」
天井を見つめているシャルフに、ドルチェはどうして? ともう一度問うた。緑色の目だけがゆっくりドルチェを見る。
「……聞きたいか?」
「ええ、昨晩読んでもらったミステリの続きよりもずっと」
身を乗り出したドルチェのその好奇心に、シャルフは負けてしまった。溜息を零して立ち上がる。
「寝る準備が整ったら、な」
シャルフは着替えを手にシャワールームへ行った。
二人が着替えを済ませ、後は寝るだけとなった夜十時。
「さて、と。……もう眠いんじゃないか? 結構長くなるぞ」
ドルチェにベッドに寝るように言ってシャルフは椅子に腰掛けた。
「構わないわ、私が聞きたいと言ったんだもの」
「前に昔話をしてやるって言ったのは俺だしな……。まあ、話してやるか」
足を組んで、自身の手を見つめながらシャルフは話始めた。
「俺はお前と探偵を始める前、人通りの多い場所で段ボールのベッドで寝起きしてた。それはドルチェも当然、知ってるだろ?」
「ええ、そうね。よく野良犬と遊んだと言っていたわ」
「その前、つまり家を失う前の話。……実は、俺は金持ちの家の息子だったんだ。信じられないだろ? 俺もだよ。髪も毎日整えられて、きっちりした服ばっかり着てたし、成績もまあ……そこそこ良かった。運動も好きでよく外で遊んだよ。友達は欲しいと思わなかったから、そんなにいなかったけどな。……器用貧乏ってやつで、大抵のことはできるけど一番得意なものは無かった。親は、というか……親父は、俺がどうやっても一番になれないのを見てがっかりしてたよ。褒められたことはほとんど無い。ま、今になれば大したことでもないけど……あの頃は、すごく悲しかったんだ、だからがんばろうと思う気持ちはどこかにやって、反対に、親父が怒るようなことばっかりやった。門限なんて絶対に守らなかったし、小遣いで夜遊び回った。そうだな、ドルチェよりもう少しでかかった頃だな。あ、身長のことじゃないぞ。……どうなっても良いやって思ってたんだ、でも……いざ、親父に家を追い出されたら、途端に悲しくなった。どうなっても良かった、わけがない。甘えてただけだった。このくらい遊び回っても、最後はやっぱり許してもらえると思って、本当に甘えてた。親父が家を追い出す時に、封筒にちょっとの金を入れてくれたのも、余計に俺の考えを歪めただろうな。優しいんだよ、根本は。家を追い出されたことを認めたくなくて、だから門番に頼み込んで家に入れてもらうようかけあったり、家の前に座り込んだりしたんだ。でも入れてもらえなくて、俺可愛くない子供だったから、それならもう入れてもらわなくても良いと思った。面倒になったんだ。許してもらう努力すら俺はしたくなかった。で、家に入れてもらえないとなれば、特に親しい友達もいない、親戚とも大した繋がりの無い俺は着の身着のまま、雨ざらし生活のはじまりはじまり、ってな」
くく、と喉の奥で笑う。
「……クラウンのあの態度を見て、ああ、俺と似てるなと思った。要するに同族嫌悪だな。あいつの他人をなめたような態度、自己嫌悪を含んだ嫌味。聞いてて嫌気が差した。あいつ、絶対あんな性格じゃない。なのに拗ねてるみたいな態度なんだ。いや、元々性悪かも知れないけどな。……俺はドルチェくらいの歳のとき、器用貧乏を天才と勘違いしてたんだよ。いや、天才だと思い込んで自尊心を保ってた。親父に反抗してたのは世間をなめてたのも半分、親父が気に入らなくて気にかけてもらいたかったっての半分、あったんだろうな。自分とクラウンの態度を重ねて、同族嫌悪の自己嫌悪。子供っぽい、ほんとに子供っぽいよ俺は。いつまで経っても大人になれてない……恥ずかしい話だ」
ドルチェは真剣にシャルフの話を聞いていたが、話を聞くにつれて動揺が心に広がっていくのを自分で感じていた。
「……家を出てからもう、何年経つかな。手紙も電話もやってないし、今家がどうなってるかも知らない。知ろうとも思わない。でも、クラウンの屋敷にいるとき、嫌でも前の生活を思い出すから……妙に気が立った。ドルチェに八つ当たりしたな、悪かったよ。クラウンにも明日……まあ、その気になったらの話だけど、謝るよ。一応依頼人なわけだしな」
ごほん、と咳払いをして、手遊びをやめたシャルフは足を組み替えた。
「ハイ、昔話終わり。こんな話、聞いても楽しくないだろ。もう寝な、ミステリ読んでやるから」
シャルフの提案にドルチェは答えなかった。気まずくなったシャルフが立ち上がろうとする。と、ドルチェがシャルフの手を握った。大きな手の半分ほどしかない。紫色の目は水分を含んでいた。
「……貴方のこと、今まで軽んじたことは無かったわ。貴方が雨ざらしでぼさぼさの髪を伸ばしたままでいたのを見た時だって、貴方のことを惨めに思ってこの新しい家に招いたわけじゃない。探偵をするのに相棒は必須だから、目が合った時に……絶対シャルフが良いと思って誘ったのよ。それは本当、……けれど、私はきっと心の中で貴方を私より下に見ていたんだわ。私が貴方を家から追い出したら、行き場が無いなんて、とんだ思い上がり……貴方には帰る場所があるし、貴方には積み上げた過去がある。……謝りたい、ごめんなさい」
「馬鹿、何も謝るなよ。実際お前よりずっと下の方にいるよ、今も今までもな」
「……貴方が優しくて、寛大で、ほとんどのことを許容できる人だとクラウンに言ったのよ。でも、それは……貴方がここへ来るまでに色々な経験をしてきたからだわ。年齢の問題ではなく、人として、貴方は私よりもずっと……ああ、上手く言えない、」
「……大人だって言いたいのか?」
「そう、……貴方は大人だわ。……当たり前かも知れないけれど、私の方が、ずっと子供で……。貴方に子守りをさせている気分になることが、たまに、本当にたまにだけれど、あるのよ」
「子守りをしてる気分になったことは一度も無い、嘘じゃないよ」
ドルチェは沈黙の末、眠たそうに瞬きをした。
「……貴方は家に戻りたいと思うことがある?」
「…………無いよ、全く。俺にはこの家がある」
シャルフの手を握っている小さな手はシャルフのものよりずっと暖かい。握られていない方の手で、ドルチェの前髪を整えた。
「……じゃあ、シャルフは探偵をやるのが楽しいの?」
「楽しいよ、……当たり前だろ」
砕けた口調になってくるのはドルチェが眠いときの特徴だ。シャルフはドルチェの頭を撫でて寝かしつけるように小声で話した。
「……ドルチェこそ、家に帰りたいんじゃないのか」
「ううん、そんなこと……無いわ、ほんとうよ……」
瞼が重くなっていく。
「…………お前がいなくなったら、俺はやることもやりたいことも無くなるな」
「ん……」
シャルフの言葉は眠気と混ざって夢の中へ溶けていった。しっかりと目を閉じ、何かを言いかけた唇から寝息が零れる。
音を立てないよう、ゆっくりと立ち上がった。シャルフも少し疲れている。
「……おやすみ、ドルチェ」
天蓋のカーテンを下ろし、電気を消すとシャルフもベッドへ身体を沈めた。
○●○●○
朝早く起きるのは決まってシャルフだった。何かが焼ける音が聞こえ、ドルチェが目を覚ます。寝巻きのまま寝室から出てくると、着替えたシャルフがオムレツを作っているところだった。
「起きたのか、おはよう」
「おはよう、顔を洗ってくるわ」
ドルチェは昨夜のことを一切覚えていないかのように今までと変わらない態度だった。
朝食もそこそこに、二人はクラウン邸へと赴いた。相変わらずブザーを押しても反応は無かったが、代わりに門には花束が刺さっている。その花束を抱えて、玄関へ。
出迎えも無く、しかし当然のことのように二人は二階へ上がった。クラウンの書斎らしい、本が並べられた部屋に挨拶に出て、速やかに掃除へ取り掛かった。上から順番に、四階、三階、と容量を掴めば掃除も手早くできるようになっていた。残りは一階の掃除、と意気込んで階段を降りようとした二人にクラウンは声をかけた。
「一度休憩にしよう。私も足が痛む」
クラウンが左足をさすりながら言った。二階の客間へ降り、今日はシャルフが紅茶を淹れる。
「ダージリンとかアールグレイとか置いてないのか? アッサムしか置いてなかったぞ」
「申し訳無いが私が好きな物しか置いていないのでね。飲みたければ買ってくれば良いだろう」
「ま、ミルクティー向きの茶葉だし良いけど」
シャルフは既にミルクの入ったカップを二人の前へ差し出した。ドルチェもクラウンも鏡合わせのように同時に、ゆったりとした動作でカップを仰ぐ。
シャルフにお礼を言ったドルチェは、カップを置いてクラウンに目をやった。
「朝は花束をありがとう、気遣いが細やかね」
「はて、知らないな」
とぼけたクラウンを二人は笑って見ていた。
「……ねえ、気になっていたのだけれど、これだけ掃除をしても貴方のプライバシーに関わるような、つまりは、貴方が触れられたくないと思うような物が出てこないのは何だか不思議だわ。今のところ、何の問題も無くクローゼットや棚を開けたりしている。普通、他人に見られては嫌な物の一つや二つあっても良いと思うのだけれど」
「だから? 何の問題も無く掃除ができるのは二人にとって良いことではないのか? ……どうしてそんなに私のことを聞きたがる」
ドルチェは首を傾げてみせた。そんなの、言わなくても分かるでしょう、と言わんばかりの目にクラウンは咳払いをした。
「……話す義理は無いな」
「けれどこちらに聞く権利はあるわ」
その切り返しに、クラウンは面食らったようだった。
「……分かった、良いだろう。話してやる」
だが、とクラウンは付け加えた。
「掃除が終わった後、報酬として、だ」
クラウンの申し出を、ドルチェは二つ返事で受けた。シャルフは内心、本当にそれで良いのかと思ったが、ドルチェの決めたことならと静かに紅茶を啜る。
「それなら、早速掃除を再開しましょう。クラウン、足の調子は?」
「大丈夫だ。二人は疲れ知らずだな、全く」
呆れたようなクラウンを先頭に、探偵二人は一階へ降りた。
黙々と作業を続ける二人を、クラウンは頬杖をついて見ていた。大広間はその名の通りかなり広く、立っているのは厳しいからとクラウンは椅子に腰掛けている。
身長の低いドルチェはテーブルや棚の整理、大男のシャルフは窓や壁、体力の必要な床掃除など、分担して掃除をこなした。見ていて、そのうちクラウンは溜息が零れた。
「……よくもまあ、真面目に……」
掃除ができないことで困っていたのは真実であったが、同時に冗談のような気持ちもあったこともまた真実であった。シャルフはともかく、見たところ令嬢らしいドルチェまでもが掃除に精を出すのを見て、クラウンの中で何かが動く。
「……ドルチェ、シャルフ」
「?」
呼ばれた二人は布巾を片手に、素直にクラウンの元へ集まった。
「……掃除はもう良い。私の話が聞きたいのだろう」
さあ、と椅子に腰掛けるよう促すと、ドルチェはそれを断る。
「いいえ。まだ終わっていないわ。こんな中途半端な仕事で報酬を受け取るわけにはいかない」
「……シャルフはもう聞くつもりのようだが?」
しっかりと椅子に腰掛けているシャルフを見て、ドルチェが頭を抱える。
「シャルフ……」
「え、だめだったか?」
シャルフが座ってしまったのなら仕方がない、とドルチェも席に着く。クラウンはドルチェの目を見つめた。咳払いをして話を始める。
「……引っ越すことにしたのだ。この屋敷から。この近辺のアパートで暮らす為に、必要無い家具は弟のところや誰か必要とする者にくれてやるつもりで。……昨日言った通り、私はアシル・シャグランの一番目の息子だ。何も無ければ、今頃、家を継いでいたことだろう。だが生まれつき足が悪くてな。もう分かると思うが、歩くのも困難なのでね。仕事なんてこなせるわけがない。それに……私には弟がいる。それも優秀なのが。足も悪くなければ頭も悪くないし、私ほど口も性格も悪くない。当然、両親は弟を可愛がった。出来の良い人間が家を継ぐのが筋というものだろう? 簡単に言うと、私が邪魔になって隔離したのだ、ここに。屋敷も金もあるが、ここには家との繋がりが無い。解雇されたと言ったが、メイドも連れて行かれたようなものだ。……昨日と今日、料理を運んで来た者がいただろう、あいつはここの元メイドだ。近くの料理店に勤めている。あいつだけは今でも料理を運んでくれているが、……あまり会話も無いな」
腕を組んでいるシャルフの手に力がこもるのをドルチェは視界の端で見た。
「屋敷に一人になる前は、何もしなくても勝手に家を継がされるものだと思っていた。私は父を尊敬していたから、長男として寄せられる期待に応えようとした。だが……足が悪いことを母が悩んで、少し、床に伏せている時期があった。それから父は少し変わったように思う。弟が生まれてからは特に、私は空気の様に扱われた。酷い目に遭ったわけではない。私も父の立場なら同じことをしたかも知れないしな……この屋敷に一人になっても金も家もある、だからそれで充分だと自分で思っていた。しかし──」
眉尻を下げて、クラウンは自嘲する様に笑った。
「──予想以上に、一人は寂しいんだ」
「…………」
シャルフの顔はいつもと変わらない、少し眠たそうな、何を考えているか分からない顔だった。しかし、腕を組んだまま、強く拳を握り締めている。
どう言えば良いのか、何を言えば良いのか、悩んでいるドルチェにシャルフが声をかけた。
「…………少し、席を外してくれ」
「シャルフ?」
「お願いだ、五分で良いから」
話すことが、言いたいことがシャルフにはあるのだろうとドルチェは最初から分かっていたようだった。きっちり五分よ、と言って大広間から出る。
ドルチェが席を外したあとのシャルフの顔を見て、クラウンはもしかすると殴られるのではないかと一瞬肩を縮めた。が、シャルフの口からは柔らかな声が流れた。
「……お前のことを、勘違いしてた。謝る。悪かった」
「な、何を……」
「良家の息子だってことを鼻にかけてるのが気に食わなかった。俺は何も持ってないんだ。全部持ってるお前が、多分羨ましかった」
次々と出てくる言葉にクラウンは動揺した。手を大きく振って、シャルフの話を中断する。
「待て、私はそんなことを言わせるつもりは……」
「良いから聞け。……足が悪いお前に、俺は身勝手な同族嫌悪を押し付けた。詳しく話す気は無いが、俺は昔お前みたいに、やけになって拗ねたような態度をしてた。だから嫌だったんだ。お前と話してると昔を思い出す。でも」
早口で捲し立てるように話した。シャルフの真剣な目を、クラウンはしっかりと捉える。
「……一人は寂しい、分かるんだ。親の期待に応えられない辛さも素直に言えないことも。お前は全部持ってるように見えて、きっと何も持ってないんだ。本当に金と家があれば充分だって思ってたら、寂しいなんて思わないだろ。……だから謝る、本当に悪かった」
「……ここまで来ると気味が悪いくらいだ。何がそこまでさせる? 私の話したことは嘘かも知れない、同情を誘うだけの言葉かも知れないというのに」
は、と笑ったクラウンに、シャルフは眉を寄せてあっけなく言った。
「お前はそんなに器用じゃないだろ」
「…………」
言われてしまえば、クラウンはそれ以上何も言えなかった。
「……なまじ自分に自信があるってのは、辛いもんだ」
その言葉はまるで自分自身に言っているようにも聞こえた。
「……引っ越すって言ってたな。でもアパート暮らしなんてお前には向いてないし、アパートよりずっとこの屋敷がお似合いだ。……親と話してみろよ。聞き分けない親父じゃないんだろ」
「……それは年上からのアドバイスのつもりか?」
「いいや、違うな」
シャルフはにやりと笑った。
「“似たもの同士へ贈る言葉”だよ」
クラウンにはずっと親に言えなかったことがあった。それは「私も子供の一人だ」ということ。空気のように扱われ、悲しく感じていたこと。そして、家を継ぎたかったということ。
親と話すきっかけにするには、探偵との出会いは充分すぎる程にクラウンに自信と温かみを与えた。
「……非常に癪だし不本意だが、私もお前に謝らなくてはいけないようだ。……見た目で身分を決めつけるようなことをした。それに……優しいところも、あったらしい。子供っぽい情けないことをした。すまない」
「謝られるようなことはされてないが……ま、素直に受け取っとくよ」
そう言って足を組んでから、あ、とシャルフは声を出した。
「……絶対あいつに変な気を起こすなよ」
「? ……ああ、なるほど……つまらん独占欲か。やはり我儘な子供だ」
「馬鹿っ、違う! ……俺は、」
「はいはいはい。みなまで言うな。分かっている」
「な、なにを……」
「つまり、自分の大事な大事な相棒を気に入らない男に取られたくなくて? わざわざ席を外させてまでそれを言って?」
クラウンは勝ち誇った笑みを浮かべ、からかいの言葉を続けようとする。シャルフが立ち上がったところで、扉がゆっくりと開いた。
「失礼……話は終わったのかしら?」
「ああ、終わったとも。……そうだろう?」
「ちっ…………ああ、終わったよ」
シャルフがどさりと腰掛ける。それなら良いわ、とドルチェも元の席へ着いた。そして一つの封筒をクラウンへと差し出す。
「これ、私たちの家……事務所に繋がる電話番号と住所よ。困ったことがあれば、……なるべく事件が良いのだけれど、掃除でもなんでも呼んでちょうだい」
「席を外した間にこれを? 随分と気が利く子だ」
「……探偵ですもの。依頼は一度きりなんて決まりは無いわ。いつでも呼んで」
「ありがたく受け取る。それと……引越しは取り止めた」
ドルチェにはクラウンの顔つきが柔らかくなっているように感じた。腕を組んでふふ、と笑う。
「私のいない五分の間に色々あったようね。でも聞かないことにするわ」
「どこまでも気が利くな。さて……では、報酬を払わせてくれ。何が欲しい?」
ドルチェより先にシャルフが口を開いた。
「俺は要らない。ドルチェに報酬を受け取る権利を渡すよ」
「ちょっと待ちなさい、報酬はもう受けとったし、掃除は終わっていないわ。それに貴方の納得する形で解決できていない……報酬を受け取る権利なんて無いのよ」
必死に言ったドルチェに、クラウンは杖を持って立ち上がり小さな頭を撫でた。
「少しくらい私にも大人ぶらせてくれ、依頼人の私が言うのだから」
「…………」
眉間に皺を寄せて、ドルチェはしばらく考え込んだ。そして、仕方ないといった風に呟く。
「分かったわ。では報酬は、また依頼をすると約束してもらう、ということでどうかしら?」
「良いだろう。だが、もう掃除は良い。父とも話してメイドはまた雇うことにする。だから……その、なんだ」
口篭ると、ごほん、とお決まりの咳払い。
「また、食事をしに来てくれ。今度は出迎えの者も出そう」
「……それは依頼かしら?」
「ああ、報酬は……エスカルゴ抜きの豪華な食事だ」
クラウンの新しい“依頼”に、ドルチェもシャルフも笑みを零した。
○●○●○
掃除はもう良いと言われたものの、完璧主義の気があるドルチェはそれが許せず結局は掃除を全て終えてから家と事務所を兼ねた狭い一室へ帰った。日が沈みかけて空が燃えている。
帰ってすぐシャルフに紅茶を淹れてもらったドルチェは、自分の好みを知り尽くしたその味に感動していた。シャルフは隣に腰掛け、ブラックコーヒーを口にする。
「……そう言えば、シェルシェが言っていたわね。「容姿端麗の白き美少女と眉目秀麗の黒き大男、ブランノワールの探偵」って。初めての依頼人が、私たちのことを知っていたのはかなり大きいと思うわ」
「確かに、なんでだろうな?」
「…………」
貴方が大きいからよ、と言おうとしたのを紅茶を一緒に飲み込む。
「ドルチェが活躍できる、もっと事件らしい依頼が増えればいいな」
肩を竦めて笑いかけたシャルフに、ドルチェは笑顔を返した。そして思い出したように立ち上がると、ソファの裏に隠すように置いてあった新品のシックなモノトーンカラーのトランクを差し出す。
「はい」
「なっ……いつ買ったんだそれ」
「秘密よ。今後の探偵活動に役立ててちょうだい」
「役立てるったって、何をどう役立てるんだよ」
受け取ると、ずしんとトランクが沈んだ。取りこぼしそうになるのを慌てて膝に乗せる。
「重っ……」
開けてみると中には、黒の革手袋、ルーペ、地図、ドルチェの持っている手帳と同じ手帳、マグライト、ハンカチ、眼鏡の七つが入っていた。それと、真っ黒の布。
「探偵の必須道具を私が厳選してみたわ」
「……これ本当に必須か? あと、この布って」
シャルフはその布をトランクから引っ張り出した。と、それがただの布ではないことに気がつく。
「新しい服よ。マネキンじゃないのだしたまには趣向を変えてみたらどうかしら」
「はー……こんな立派な服もらって、俺は嫁にでも出れば良いのかな」
「あら、アメール家に嫁ぐつもり?」
「冗談。着替えてくる」
寝室に行ったシャルフを待つ間、ドルチェはシャルフの昔話を思い返していた。いつまでこうしていられるだろうか。
シャルフの話も、クラウンの話も、ドルチェにとっては身近でありとても耳の痛い話でもあった。もちろんドルチェは親に追い出されたわけでも、反抗心から家を出てきたわけでもない。だが二人の話は遠いところでの話ではなく、足元の砂を掬っていく波のように、じわじわとドルチェに焦りを与えていった。
残り、長くて一ヶ月。ドルチェは心の中で呟いた。
「……なあ、こんなかっちりした服俺には似合わな……おい、ドルチェ?」
「あ……着替え終わったのね。すごく素敵よ、私の目に狂いは無かったようだわ。でもタイが曲がってる」
「はは、シャツにジャケットなんて、ほんと何年ぶりに着るだろうな」
ドルチェにタイを直してもらうため、跪くようにして屈んだシャルフのその、楽しげな顔にドルチェはそっと問いかけた。
「喜んでもらえたかしら?」
「ああ、とってもな。ただ、どこに着ていけば良いかわからないな。クラウンんとこにでも着ていくか?」
「この服なら「その服で入るのか?」なんて言われないでしょうね」
「でもあの服だってドルチェが選んだ服だぞ? あいつの価値観はよく分からないな」
タイを直してもらったシャルフが上機嫌で立ち上がる。見上げているとドルチェは首を痛めそうだった。
「そうだ、ドルチェも着替えろよ。この前新しい服買ってただろ?」
「買ったけれど……あとはシャワーを浴びて寝るだけなのに」
「俺が見たいんだ。それにこの服なら、ダンスの相手にも相応しいだろ」
くるりと回ってみせるシャルフに、ドルチェは耐えきれず笑いを零す。そしてクローゼットから真っ白なドレスを取り出し、寝室で素早く着替えた。
変身を終えたドルチェを見て、シャルフはひゅ、と口笛を吹いた。
「……流石はアメール家のお嬢様だな。決まってる、すごく綺麗だ」
「面と向かってそんなに褒めるなんて、相当ご機嫌なのね?」
「当たり前だろ? ほら、踊ろう」
手を取ってくるり、ドルチェの小さな身体が回った。スカートが広がり、花が咲いたように煌めく。シャルフの肩に届かない小さな手は彼の腰に、ドルチェの腰に届かない大きな手は彼女の肩に添えられ、ぎこちなく、決して優雅では無いそのステップに自然と笑いが込み上げた。
「……ダンスの特訓が必要ね、これじゃ舞踏会には行けないわ」
「これでも上達したと思ったんだけど、」
「だめよ、もっとリードして……違うわ、ほら出す足を間違えた」
「……悪い、足を踏……いっ!?」
「あら、ごめんなさい」
でたらめなステップを踏んで、全く決まらないダンスにお互い笑って、けれどいつまでもこうしてはいられないだろうということも理解している。しかしそれでも、少しの間でも。
2018年8月
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