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仮面

 音色を見失ってしまった、と。

 ぽつりと呟かれた言葉に咄嗟には反応できず、顔を窺い見ることしかできなかった。


 ピアノのコンクール、控室。私の出番は彼の次で、彼は練習をすることも無くただ椅子に腰掛けて俯いていた。

 今思えば、あれは彼なりの懺悔、或いは助けを求める救難信号だったのかもしれない。

 楽譜を何度も読み返し、そらで弾いて確認する私は手を止めて、彼の顔を窺い見ていたが顔から表情を読み取ることはできなかった。いつ見かけても血の気の引いた、チアノーゼを疑ってしまうような青ざめた顔をしているから。

 私が何も言えないで、それでも何かを言おうとしていることに彼は気付いてこちらを見た。吸い込まれそうな濃い藍色の瞳だった。

「あ、の」

 見計らったように、スタッフが扉をノックする。彼が舞台裏で待機するように指示され、緩く頷くと楽譜を持って立ち上がった。

「……無理しないで、」

 立ち上がった彼に向けて、私は言った。目が合い、僅かに眉尻を下げた彼は控室を出ていく。私の言葉は懇願に近かったかもしれない。それほど、彼はやつれているように見えた。

 彼の出て行った控室は変わらず静かで、どうしてか、私はリハもし終わらない内に彼の演奏を聴きに舞台裏へと向かった。


 あの景色は二度と忘れないだろう。

 彼が巷で何と言われているのか、同じ界隈にいる人間が知らないわけが無かった。

 「鬼才」。

 言葉も喋る前から楽器に触れ、尋常ではない練習を重ね、若干十七歳にして幾度と無く賞を勝ち取って。神が彼をいつか連れ去りそうだと、彼の儚く生気の無い姿を皮肉って言う人も多い。私のような凡人が同じコンクールに出ることすら、烏滸がましいと思わされるほどの才能だった。彼の次に演奏する者は皆が皆嫌がって顔を顰める。勝ち目が無いから、そして彼が一切の喜びを見せないからだ。

 舞台袖から見えるのは、ピアノとその前に座る彼の背中だけ。着ていた衣装はいつも親が決めていると、雑誌のインタビューに載っていたが、今日の衣装はいつもと雰囲気が違った。光沢のきつい安布に見えて、しかしそんなことは、彼の演奏が始まると同時に関係の無いことに思えた。

 選曲はドビュッシーの「仮面-マスク-」だった。重く響くような低音と、叫びあげるような切ない高音があまりに奇麗で、聴き終わる頃には彼の演奏に陶酔しきっていた。

 確かに、これは、彼の次に弾くなんて御免だ。

 五分間の彼の独奏が終わり、御辞儀をする彼に拍手が降り注がれる。鳴り終わらない拍手に、彼は長く頭を下げていた。

 楽譜を持った彼が舞台袖、つまり私の方へと向かって歩いてくる。その顔は演奏前と変わらない、やはり青ざめた生気の無い顔をしていた。すれ違う瞬間、彼が溜息を吐いたことに気が付いたのは私だけだったのだろうか。

 とっくに戦意を殺されてしまい、私は浮ついた心地のままに自分の出番を終えた。その後どうやって家路についたのか覚えが無い。その次に思い出せる私の鮮明な記憶は、またもや彼に関することだった。

 彼が行方知れずになったと、無感情に読み上げるアナウンサーの声。顔を上げて息を飲んだ。報道によれば、部屋には真っ赤な衣装が八つ裂きにされ部屋の隅で丸められており、遺書の類も見つからず、家からさほど遠くない駅で見かけられた後一切の足取りが掴めなくなったのだと言う。

 彼は何を思い詰めて、何を思って家を出てしまったのか、生死でさえ、私に分かることは何ひとつとして無かった。最後に姿を目にしたコンクールの時、あの時私が気の利いたことが言えていたのなら、彼はいなくなることもなく今も演奏していたのだろうか。

 彼の母親が大粒の涙を流し喘ぎ泣いている映像を、どこか茶番を見るような気持ちで見た。

 私はピアノの演奏者を辞めた。


 音色を見失ってしまった。あの言葉が、あの声が、私の脳には随分深く濃く刻まれてしまった。あのコンクールも忘れられないまま。

 もしも神に召し上げられたとするならば、彼はそれで幸福なのだろうか。

 今でも時折、ドビュッシーの「仮面」を聴いては悔恨ともどかしさ、羨望と切望が胸に渦巻いて苦しく歪ませた。

 それが、彼を忘れない為の、ただ一つの方法な気がした。