ぐつぐつ、と火にかけられた鍋が音を立てる。ワンルームには私と先輩。テレビも真っ暗な画面のままで、他に音はなかった。
対面に座って、先輩は丹念に灰汁をとっている。私は少しだけうつむいた。
ここは先輩の家であり、私たちは仕事が終わってそのままの足で来ている。私はお泊まりセットをあらかじめ用意して出勤したので、今夜はここで寝る予定だ。
本来ならとても楽しいイベントになるはずで、少なくともこうしてしんとした中でうつむくことにはならなかったと思う。
じゃあどうしてこんなことなっているのかと言えば、家に入る直前の先輩の一言がきっかけだった。
「言いにくいんだけど、カニ剥いてるところが見たいんだよね」
「カニ剥いてるところ見たい……?」
どういうことですかと聞き返した私に、先輩はいくつか「家に入るための条件」を提示した。
・決して手は出さないが、カニを剥いているところを見ると興奮してしまうので、それを理解してほしい
・カニを剥いて食べるところまで見たいので、ハサミは使わず手で剥いて遠慮なくたくさん食べてほしい
・このことは誰にも言わない自分たちだけの秘密にしてほしい
私はそれを聞いて、どう返事をするか迷って迷って迷って迷った挙句、先輩の顔につられて「全部守ります」と答えてここにいる。
先輩は私が今の職場に来てすぐに指導係として私についてくれた人で、気さくに話しかけられる数少ない人のうちの一人だ。背が高く、私みたいな野暮ったい人間にも優しく笑いかけてくれ、仕事もできるし教え方が上手。女性社員からは当然人気だし、私も密かに憧れを抱いている。先輩というのは私が心の中だけの呼称で、実際には「先輩」ではなく「葛原さん」と呼んでいた。
憧れの先輩。「週末家に来ないか」と誘われたときは、確かに有頂天だったはずなのに。
「よし、井西くん。もう食べていいよ」
「あ、はい」
部屋中をお出汁のいい香りが満たしている。お腹は確実に減っていて、きゅるきゅると音が鳴りそうなくらいだ。湯気の向こうから先輩が私を見つめている。独り占めしたいと願った、形のいい笑顔。何とか口角を持ち上げて、私も先輩に笑い返す。
小皿に、茹でられて真っ赤なカニを乗せた。先輩がゆっくり立ち上がって、手元が見えるようになのか、私の隣に腰かける。どく、と心臓が逸った。見られていると緊張する。そっと箸を置いてカニに手をかけた。
胴体と脚とを押さえて、まずは引き離す。ばきゅ、と音がして外れた。視界の端で、先輩が片手で口元を覆っているのがわかる。こんなに堂々とされると、こちらが悪いような気さえした。
身が入っている太い脚。美味しそう、と意識を向ければ空腹にはやはり勝てない。ここでやめるなんて絶対に無理だと思った。先輩もごくりと生唾を飲んで、私がカニを剥くところを真剣に見ている。力を入れて、一気に関節を折り曲げた。
「わ、……」
先輩が声を漏らすので、思わず私も息を吐いた。何もわからない。わからないけど、私までなんとなくそういう気分になってくる。
「井西くん、豪快だね。いいね……やっぱり井西くん誘ってよかった」
「あ、……はい、ありがとうございます」
カニを剥いてお礼を言うことがこれから先人生であるだろうか。
殻から引き抜いた身を、先輩に言われたとおり口を大きく開けて、下から受け止めるように頬張った。カニの風味が頭の中にまで広がるようで、大のカニ好きとまではいかない私も目を細めてしまう。
「おいしい?」
「ん、おいひ、です」
「そっか、よかった」
出汁のあっさりした味とカニの濃い味が噛む度に混ざって、口の中をいっぱいにすることの幸せが脳みそをひたひたにしている。我慢できなくてすぐ手元に視線を落として、殻を剥いていくと先輩が嬉しそうに笑った。
ばきゅ、ばきゃ、ぱき、と先程まで静かだった部屋の中に音が落ちる。先輩も鍋に入ってる白菜とか豆腐とか、食べたらいいのに。思うけど、思うだけにしておく。私が食べたいからだ。
「美味しそうに食べるね……井西くんって結構いっぱい食べるタイプだったりするの?」
「ん……ん、」
「あはは、食べてからでいいよ。ゆっくり噛んで」
「……、……ん、えと……お腹すいてたので」
「そうだよね。会社からうちまで結構あるし」
「お昼少なめにしてて……」
「なんで? あ、カニ鍋するよって言ってあったもんね。ありがとう」
頬杖をついてこちらを見ている先輩の方を向けない。かっこよくて、というのもあるけど、それよりはなんだか恥ずかしかったから。「今この人は私を見て興奮してるんだ」というのが頭から離れなかった。
カニ。白菜。しいたけ。カニ。豆腐。カニ。カニ。ああ、白米が欲しい。先輩に言ったら出してくれそうだけど、今日のメインはカニだから言えない。あと、ポン酢なんかも欲しい。カニはそのものの味が強くてポン酢はむしろ邪魔になるけど、豆腐と、少し入ってる豚肉とかには垂らして食べたかった。
「……、ふ……ぅ」
先輩が時折吐く息は、どう考えたって色めいたもの。私はそこを見ないようにしていたけど、もしかして勃ってたりするんだろうか。このあと先輩はどうするつもりなんだろう。
もやもやしたまま、それでもお鍋はあまりに美味しくてあっという間に空になった。元々一人分しか用意していなかったんだろう。
先輩は隣に座ったまま、私の名前を呼んだ。
「井西くん、ありがとう。おいしかった? 満足できたかな」
「は、はい。美味しかったです……ご飯もあったら食べたかったかも……です」
「ああ、ご飯! いいね、今度はそうしようね」
今度? まさか二回目もあるのか。
「えと……葛原さん、は……」
「あ……はは、うん。満足! 久しぶりに人がカニ剥いてるところ見られてよかった」
気持ちのいい満腹感に若干意識をとろとろとさせつつ、こんなとき先輩と何を話すべきか迷う。黙っていると先輩が口を開いた。
「井西くんって恋人いたりする?」
「え、いや……まさか……」
「まあ、いたら僕の家なんか来ないよね。お泊まりだし」
どんな意図でこんなこと聞いてくるんだろうと思っていると、今日二回目の衝撃的な一言。
「じゃあ……同じベッドで寝てもいい?」
「……え?」
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