昨晩成宮さんが泣いていたのは気になったが、とりあえずは眠ってくれたので僕もしっかり眠ることができた。
朝は簡単なものを作って一緒に食べる。着替えて家を出ようとすると、まだ少し眠そうな成宮さんがへらへらと笑いながら僕に腕を伸ばした。
「いってきますのちゅーは?」
「ふふ、いいですよ」
頬に手を添えて優しくキスをする。成宮さんはしばらく嬉しそうにしていたのに、ふと不安そうな顔をした。
「今日は早く帰ってくる?」
「うん、がんばって早く帰りますね」
「じゃあもっかいちゅーして」
「……かわいい」
唇を合わせると成宮さんが僕の首に腕を回す。離れようとしてもできなくて、唇の間から差し込まれる舌を拒む方法がない。
昨日もたくさんしたのに、成宮さんとキスをすると頭の中がぼやけて何も考えられなくなる。まるで麻酔でもかけられているかのようだった。
「……、ん……」
はっとして胸を押し返し、成宮さんの頭を撫でる。
「もっとしていたいけど……仕事行かないと」
「んふふ……こうたいつまでしてくれるんだろうと思った。いじわるしてごめんね」
「もう……行ってきますね」
「ん、いってらっしゃい」
成宮さんが上機嫌に手をふりふりと振って見送ってくれる。遅れそうなのに浮足立った気持ちで会社に向かった。
出勤すると、この間励ましてくれた後輩が旅行のお土産を配っている最中だった。目が合って会釈すると後輩が駆け寄ってくる。
「あ、先輩! おはようございます」
「おはようございます」
「先輩にもお土産……あ! 車に置いてきちゃった!」
「はは……じゃあ次会ったときでいいですよ」
「あーそれが、できれば冷蔵してほしいもので……今ちょっと来てもらってもいいですか?」
「冷蔵してほしいもの……?」
言いつつ、エレベーターで駐車場まで降りて車まで着いていく。後輩は車から小さめの箱を取り出すと、それを確認した。
「ん~……すみません、冷蔵じゃないかも」
「なんだ、大丈夫じゃないですか」
「あははっ、大丈夫だったみたいです。これ、焼き菓子なんですけどすごい美味しかったのでよかったら」
「ありがとうございます」
「あと、こっちはお土産ではないんですけど……」
箱と一緒に小さな包みを渡される。
「そっちは私の手作りなんです。先輩誕生日近かったですよね? たしか12月30日って……」
「あれ、教えたことあったっけ? よく覚えてますね……」
「この間誕生日の話題になって知ったんです、苦手じゃなかったらそっちも食べてくれると嬉しいな~って」
「わざわざありがとうございます……すみません」
いえいえと手を振って笑う後輩に頭を下げる。「そろそろ戻らないとですね」と駐車場を後にしようとしたとき、ガシャン、と大きな音が鳴った。
「……? 何だろう」
「何でしょうね? 誰か何か落としちゃったのかな」
なんですかね、と相槌を打ちながらエレベーターに乗り込む。
何故か、胸騒ぎがしていた。虫のしらせというやつだろうか。
「そういえば、課長が――」
後輩が喋っているのを聞きながら適当に返事をして、嫌な予感に気を揉みつつも溜まっていた仕事に手をつけた。
―― ― ―
秋が終わりを迎え、いよいよ冬が始まろうとしている11月上旬。仕事が早く終わって浮かれていた僕は真っ直ぐ帰らず、中華でも食べて帰ろうかと考えていた。
でもいつも中華だからたまにはイタリアンもいいな、思い切って寿司にしようか? 好きなアーティストの曲を聴きながら歩いていると、橋の向こうから歩いてくるすらりとした体格の男性が目に入った。
黒い髪に黒い服、血の気の薄い肌。ふらふらとした覚束ない足取りが何とも言えず不安を煽った。大丈夫だろうかと見ていると、橋の中央あたりでゆっくり立ち止まり、挙句の果てにしゃがみこんでしまった。
「わ、」
声が出るのと身体が動くのは同時だった。駆け寄って支える。
「すみません、大丈夫ですか?」
「……、」
顔を上げて、その人が僕を見る。伏せられていた目が僕を捉えると、一瞬時間が止まったかのように思えた。
細めだがしっかりと大きく真っ黒な瞳。下げられた眉尻と薄い唇が蠱惑的にすら感じる。目元と口元にそれぞれあるほくろが印象的だった。
「あ、えっと……体調悪いのかと思って、つい声をかけちゃって」
「……すみません……貧血で……」
はらりと落ちた髪を耳にかける仕草。僕の心臓はどく、どく、と音を立てていた。
「どこかで休んだ方がいいんじゃないですか? ここだと自転車も通るし、」
僕の言葉を聞き、わずかに笑う。
「じゃあ、……少しだけ付き添ってもらってもいいですか?」
包帯の巻かれた手首に気が付いたのはこのときだった。身体が弱いのだと察した僕は二つ返事で了承しようとして、逡巡する。医療の知識があったなら、自信を持って請け負うことができたのかもしれないが、生憎僕はただのサラリーマンだ。
僕が返事に困っていると、その人は無理やり立ち上がろうとしながら口を開く。
「やっぱりご迷惑ですよね、一人で帰るので大丈夫です……」
僕の口は、もう勝手に動いていた。
「付き添いますよ、僕でよければ」
緊張していたからか声が大きくなってしまう。慌ててトーンを落として続けた。
「とりあえず、そこにベンチがあるのでそこで休憩しませんか?」
その人は静かに頷いて、嬉しそうに薄く笑みを浮かべた。
― ―― ――
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