blow,5

 正直なところ後輩の存在には救われている部分もあった。居づらくなっている中でも気兼ねなく話しかけてくれるのはありがたいと思ったし、指示も素直に聞いてくれるから仕事も教えやすい。この子がいなかったら仕事に来るのは大変だっただろうな、とも思う。

 それでもプライベートのこととなると話は別だ。業務時間外に仕事のことでメッセージを送ってくるくらいならまだ成宮さんも許してくれそうなものだが、手作りのお菓子なんて知ったらどうなるかは目に見えている。

 仕事をしながら、お菓子の処遇を考えた。食べてしまえば話は早いが、それができない理由が僕にはある。

 去年のちょうど今頃、12月中旬。成宮さんが僕にシュークリームを用意してくれていたのに、その日に限って先輩から差し入れでシュークリームをもらっていて、しかもそれを本人に話してしまったことがある。そのときは成宮さんが何をしても機嫌を直してくれなくてかなり困った。それ以来差し入れやお菓子をもらうことには敏感になっている。

 つまり僕は嘘がつけない。隠し事も苦手だ。だからそもそも隠さなきゃいけないことはしないように気を付けている。

 最近調子が良さそうな成宮さんに、いらない刺激は与えたくない。かといって捨ててしまうのは忍びないし、食べ物を無駄にするのはいくらなんでも気が引けた。

 同僚にでもあげようか、どうしようか……

 迷いながら仕事をして昼休みになった。昼食をとりながら携帯を確認するが、成宮さんからメッセージは一件も来ていない。こうも大人しいとかえって僕の方が不安になった。いつも着信があるとうんざりしていたのに、来ないとすごく心配になる。都合よくできたものだなと思いながらメッセージを送った。

『成宮さんご飯食べた? 僕はエビチリにしたよ』

 今までの調子だと『吐いた』だとか、『またやっちゃった』と赤い洗面所の写真を見せられたりだとかするところだ。今日はどうだろう。かすかに期待しながら返事を待つと、既読がついてメッセージが送られてくる。

『食べたよ。肉団子とか』

『鍋に入りきらなかったやつ? いいですね』

『うん』

 少し素っ気なくは感じるが、返事がきて安堵した。成宮さんも僕からの返事が来るとこんなふうに安心するんだろうか。

 他愛ないスタンプや絵文字のやり取りをして、昼休みが終わる。

 結局のところお菓子の行先は決められなかった。ロッカーにしまい込んでバタン、と閉じる。

 仕事が終わった僕は花屋に向けて歩き始めた。

 

 花言葉だとかには疎いので、決め手にならずたった一輪買うのに思ったよりも時間がかかってしまった。成宮さんに好きな花を聞いておくべきだったな、と反省する。

 辺りはすっかり暗くなってしまった。ラッピングされた真っ赤な薔薇を手に成宮さんの家を目指す。一輪だけの薔薇は暗い夜道でもやけに艶々として見えた。成宮さんの手を刺さないように棘も落としてもらって、持っているだけでなんだかドキドキしてくる。喜んでもらえるだろうか。

 早く成宮さんの喜ぶ顔が見たくて、歩く足がどんどん速くなる。もうすぐ家が見えてくるというところで、たまらなくなって走って行った。

 階段を上がって左から二番目の部屋。合鍵を使って扉を開ける。

「ただいま! ……」

 いつもは出迎えに来てくれるはずの成宮さんが、今日は来てくれない。

 違和感を覚えつつ靴を脱ごうとして、成宮さんが履くには大きすぎる履き古しの革靴に爪先が当たった。

「何だ……これ、」

 顔が歪んだのが自分でも分かる。さっきまで心地よく跳ねていた心臓が無理やり収縮させられるような感覚に陥った。耳元でどくんどくんとうるさく鳴っている。何だ、これは。

 鞄と花を玄関に放って部屋に上がる。

 ワンルームのそう広くはない部屋の中。割れた花瓶とバラバラになった花びら、そして見覚えのある真っ赤な液体がそこら中に飛び散って、まるで嵐が来たようだった。

「成宮さん!」

 ガラスを避けながら中に入りベッドを見れば、人が二人。

 片方は成宮さん、片方は……

「んだよ彼氏持ちなら言えよ、バカが」

「お、ぇ、なさ……っげほ、」

 首に手をかけていた体格のいい男性は、成宮さんから退くと僕を見た。

「言っておくけど、こいつから誘ってきたんだからな。浮気とか言うんだったら俺に非はねえから」

「は……?」

「胸糞わりぃ、締まり悪いし最悪だよ」

 状況に脳が追い付かないでいると、男の人は服を着て僕を突き飛ばして家を出ていく。

 成宮さんは謝りながら泣いていた。

「……っごめ、なさ、……ごぇんなさい、」

「……成宮さん……」

「こうた行かないで、ごめんらさ、っやだ、おこんないで」

「……、……」

 訳も分からず、一歩ずつベッドに近寄る。気が付いたら僕は成宮さんを抱きしめていた。手が震えて止まらない。成宮さんの肌が酷く冷たくなっている。絞められた首に手の跡がくっきりとできていることが、瞼の裏にまで濃く焼きつけられていた。

 僕にしがみついてずっと泣きじゃくっている成宮さんの声。しゃくりあげて息も苦しそうに泣いている。つられたのか何なのか、僕の頬もなぜか濡れていた。悲しいも苦しいも分からないのに、ぼろぼろと出続ける涙をそのままにする。

 抱き上げて風呂場に連れていき、綺麗な浴槽にお湯を溜めはじめた。その中に二人で入る。身体を離すと顔を隠す成宮さんの腕を優しく掴んで、泣き顔を見ながらそっとキスをした。

 さっきの人は誰、僕以外ともああやってセックスしてたの、どうして花瓶が割れてるの、なんでそんなに謝ってるの、

 聞きたいことが山ほどあるのに何一つとして言葉が出てこない。温かいお湯の中にいるのに、身体が芯から冷え切っていた。成宮さんは泣き止まない。僕が何も言わないから、怒っていると思って怖がっているんだろうと思った。

 なんだか何もかもが他人事のように思える。びしょびしょに濡れているこのスーツも、血が滲んできた成宮さんの手首の包帯も、どれもが遠くの出来事のように。

 キスを繰り返す。泣いていた成宮さんが落ち着きを取り戻して、キスに夢中になっていく。

 ああ、今離れなきゃいけないのに。こんなこと、絶対やめなきゃいけないのに。

 なんで離れられないんだろう。冷静になれないんだろう。見えないカミソリで心を切りつけられているのに、それが分かってるのに、どうして。

 どうして、なんて答えは分かっていた。あの日、僕が声なんかかけなかったら。

「こうた、ごめん……ごめんね」

「……」

「こうたが取られちゃうと思って、だから、俺、訳わかんなくなっちゃって」

 首に腕を回される。真っ黒な瞳が僕を見つめている。

「助けてくれてありがと、こうた……ごめんね、」

「……、……はは」

 もう笑いしか出てこなかった。またキスをする。

 頭の奥が痺れていく感覚。脳に直接、麻酔薬を投与されているような。甘く痺れて何も考えられなくなっていく。

 成宮さんの甘い声、動くたびに鳴る水音。吐息までもが浴室内に反響する。

 胸の辺りの不快感を、キスの快感で無理やり見ないふりしていた。