blow,7

 出勤、メッセージ無し。

 ロッカーを開くと甘ったるい匂いがした。ロッカーに入れっぱなしにしていたお菓子がその匂いを放っている。しまった、と思いつつ、捨てる気にも食べる気にもなれないでまた蓋をした。

 まだ朝早いし寝ているのかもしれないと思いながら仕事に取りかかる。睡眠不足の頭で、なんとか意識を保っていた。

 昼休み、メッセージ無し。

 ご飯を食べるよりも何よりも先に通知を確認した。まだ何も来ていない。よく寝る人だからまだ寝ているのかもしれない。思いながらもどこかであの光景を連想していた。不安に突き動かされた指が止まることなくメッセージを送る。

 食欲は無かった。何も食べる気になれないけど、食べずに働けるほど丈夫にできていない。コンビニで適当に弁当を買って、ろくに噛まずに胃に押し込む。味なんかしなかった。仮眠しようと思っていたけど、結局ずっと通知が来ないかとスマホを触って昼休みを終えた。

 退勤、メッセージ、

「なんで……」

 無い。無い。既読がつかない。返事が来ない。

 なんで? 電話をかける。出ない。長すぎるコール音が鼓膜から入って喉を絞めあげるように成宮さんの不在を知らしめた。

 ロッカーを開けるとお菓子の匂いがする。それを手に取って、ぐちゃぐちゃに丸めてレジ袋に突っ込み、更衣室のゴミ箱に押し込んだ。

 もう特に何も思わなかった。

 走って電車に乗る。何度もスタンプを送る。電話をかける。とん、と肩を叩かれ、はっとしてそちらを見た。

「兄ちゃん、電車の中で電話しちゃいけねえって習わなかったか?」

「え、あ……すみません」

 成宮さんの最寄り。電車を降りる。

 家まで、息が切れるほど走った。走って、鞄から定期が落ちて、拾って、また走って。

 繰り返して家の前に着く。

 ドアノブを捻ると鍵がかかっていた。合鍵を取り出す手が震えていることに気が付いて、落ち着きたくて縋るように息を吐く。ガチャリ、と重い音がして鍵が開いた。

「……成宮さん! 成宮さん、ただいま! 仕事、終わったから帰りましたよ! 起きてください、ねえ」

 姿を見る前に大声を出した。玄関に革靴は無い。部屋も、綺麗なままだ。

「ねえ成宮さん、いくらなんでも寝すぎだよ、起きてくださいよ!」

 一番怖いのはシャワーの音すらしないことだった。しんと静かな部屋は暗い。まだ18時過ぎなのに、真っ暗で。

 声を出しながらちらりとテーブルを見る。花瓶はもうなくなっていた。当然だ、僕が昨日片づけたから。

 見たくないものを想像しながら風呂場を開ける。すっかり乾いている。

「成宮さん、」

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。死んでたらどうしよう。息が上がる。ベッドを確認したくない。でも風呂場にもいないなら。

 ベッドの上を見る。ぐしゃぐしゃのシーツと何度も見た赤いシミ。

「……なんで……なんで、なんで」

 成宮さんがいない。ベッドにもいない。どこにもいない。荷物も何もかもここにあるのに、身体だけが隠されたみたいにどこにも無い。ベランダもキッチンもトイレも見た。

 全部見た。いなかった。

 玄関を出て扉を閉め、背中を預けてずるずるとしゃがみ込む。膝を抱えて地面に直接座ってしまうと、身体が一気に冷えていった。

 早く成宮さんが「普通に」なってくれたらいいのにな。2年前から何度も考えたことだった。

 先に手を出してきたのは成宮さんだったし、「成宮さんには僕しかいない、僕がいてあげなきゃだめなんだ」と思った。ずっとそう思っていた。縁が切れるとしたら僕から切るか、どっちかが死ぬか、その二択なんだと。

 とんだ思い違いだった。生殺与奪も何もかもを、成宮さんに握られていた。キスして痛みを忘れていたのは僕の方。ああやって笑顔を見られるなら、どれだけ辛い思いしたって「僕が成宮さんを治してあげられる」。

 なんて、馬鹿みたいだ。

 麻酔が切れた。痛みを忘れていた箇所すべてが危険信号を鳴らしている。

 痺れるほど強く腕を握りしめて、ひたすら涙を流すことで時間を潰していた。

 

 

 たん、たん、と足音がして期待して、姿を見て落胆するのを何度も繰り返した。何時間経っただろう、と腕時計を見てもまだ1時間も経っていないことに肩が落ちる。何人も来て、そのどれもが成宮さんではなくて、やっと現れた顔見知りは管理人さんだった。

「何してるんです、そんなところで」

「……、っと、……成宮さん待ってて」

「入れないんですか? いつも遊びに来てたのに」

「いえ……」

 何も言えなくて黙っていると、管理人さんは僕に構うことなくドアノブを捻った。僕がさっき開けたまま鍵は閉めていなかったから、抵抗なく回る。

「開いてるじゃないの、入ったらどうです」

「……でも……」

「風邪ひいちゃいますよ、ほら入って」

「……、」

「暖房つけないとだめですからね、もう12月なんだから」

 僕を立たせてほとんど無理やり部屋に押し込むと、管理人さんはそのまま何も言うことなく立ち去ってしまった。

 成宮さんがいない部屋で一人になる。

 暖房をつけてもがたがたと震え続ける身体をさすった。冷蔵庫を開いて、何か食べられるものが入っていないか探す。管理人さんがいなくなった今になって、監視カメラを見せてくれないか頼めばよかったと後悔した。見せてと頼んだところで、見せてくれるとは限らないけど。

 冷蔵庫にはすぐ食べられるものは入っていなかった。冷凍庫を開けて、パスタがあったのでそれを食べようと取り出す。

 背中を丸めて手を伸ばしたとき、何か視界に見覚えのある色を見つけて手を止めた。

 床に置かれたゴミ袋の中、赤と白と黄色、それからオレンジと茶色。何のゴミだろうとよく見る。

「……うわ、え、」

 袋の中に入っているのは粉々に割れたお弁当箱と、汚れてしまったランチバッグ。お弁当の中身はエビチリと肉団子と卵焼きだった。

 絡まった糸がぴんと張るように思い出す。鍋に使わなかったもの、余ったもの、僕が食べたいって言ったもの。

 あんなに調子良さそうだった成宮さんが、なんで急にあんなことしたんだろう、どうして、とずっと疑問だった。理由はさっぱり分からなかったし、いつも何があってどんなことが嫌だったか泣きながらでも教えてくれる成宮さんが、お弁当を作ろうとして失敗したなら僕に言わないはずがない。

 じゃあなんで、と堂々巡りになる。ゴミ袋を閉じて、やっぱり食欲がなくてパスタは冷凍庫に戻した。

 頭がぎしぎしと痛む。身体はいつまで経っても温かくならない。かちかちと奥歯を鳴らしながら、汚れたスーツのまま床に転がった。

 ああ、もうこのまま死んじゃってもいい。成宮さんは僕の死体を見つけてどう思うだろう。少しは悲しんでくれるだろうか。それとも「あーあ」って、それで終わりだろうか。

 何でもいい。もうどうでもいい。とにかく楽になりたい、楽に、楽に、

 重たい、意識の遠く。エアコンの稼働音の奥から、たん、たん、と足音が聞こえた。

 

 

 全身がぬるいお湯に浸かっているような感覚。とろとろとしてあたたかい、気持ちいい。ずっとこのまま、と思っていると、身体を揺さぶられて意志とは反対に目が開いていった。

「こうた、おはよ」

「……あ、……成宮、さん」

「床で寝ちゃだめって俺によく言うのに、スーツのまんまで床で寝てたんだ?」

 くすくすと笑う成宮さんの顔。俺は毛布に包まれて、成宮さんに抱きかかえられていた。ぬるま湯の正体は成宮さんの体温だったらしい。

「……どこ行ってたんですか、」

 会ったら責めたてよう、問い詰めようと思っていたはずなのに、出てきた声は思っているよりずっと落ち着いていた。

「え? ん、別に……ちょっとその辺ぶらついてただけ。心配した?」

「心配どころじゃないですよ、なんで……電話くらい出てくれなきゃ、」

「不安で俺の家まで来ちゃうんだね」

「……、そうだよ……」

 今まさに、僕は台に乗せられている状態だ。医者が注射器を持って現れるような段階。

「放っておいてごめんね? こうたが俺のこと、昨日で嫌になっちゃったんじゃないかと思って俺も不安だったんだよ」

「だからって……」

「ねえこうた、俺に愛想尽かしてどっか行ったりしない?」

 頬に手を添えられる。注射器が首筋に当てられる、段階。

「行かない……行かないから……」

「約束してくれる?」

 僕を見つめている瞳。真っ黒で、底が見えなくて、反射した自分の顔があまりに情けなくていっそ笑えてくる。

「……」

 今なら引き返せる。昨日だか今日だかに見た夢を思い出した。今なら……

「こうた、約束して?」

 自分は何回だって約束を破るくせに?

「約束……」

 指を絡められる。針がゆっくりと僕を刺していく。

「一生俺から離れちゃ嫌だよ、こうた」

 頷いたらだめだって分かってるのに。

「……うん、一生……そばにいます」

 強く手を握られて、僕を見下ろす顔がゆっくりと近づいてくる。麻酔薬が血管に注入されて循環して、

「俺にはこうたしかいないよ」

 頭の中心が冷たくなるのが分かる。我慢できなくなって声を出して泣いた。

 成宮さんがずっとこのままでも、もう僕は手を離せない。麻酔なしじゃ生きていけない。これがなくなったら痛みに気づいてしまうから。あんな痛い思いはもうしたくない、から。

「僕にも成宮さんしかいないよ」

 ふふ、と成宮さんが優しく笑う。

「こうた、だいすき」