Rick
空のグラスを目の前に差し出されたように思った。まだよく見えないまま、そのグラスが頬に当てられ意識と視力を夢から引き摺り出してくる。
「リック、ほらリック」
水だよと言われ、グラスが空ではないと気がついた。テーブルに突っ伏していたせいで腕が痺れている。身体を起こし、水を喉の奥へ押しやると眠気と怠さも連れて行ってくれた。行儀悪くテーブルに半分腰かけたレニーが目に入る。
「飲み過ぎ。何杯目だ?」
「分からない」
鈍痛が頭を襲う。周りを見回すとすっかり夜は更け薄ら明るくなってきている。
自らのハイネックに指先で触れ、レニーは片眉を上げて笑った。きっと先程までお楽しみだったのだろう。前髪は掻き上げて数本額に垂れている。
「そうだろうね。さ、君もベッドに」
頭を撫でられるのは嫌いじゃなかった。グラスに残った水を飲み干して、レニーの後ろについてベッドへ潜った。
目覚めははっきり言って最悪だった。割れるような頭痛に、胃の中にナメクジでも這っているのではないかと思うような吐き気が、目を開けた瞬間に襲う。昨夜――と言うより、もはや今朝だが、水をもらったのは殆ど無意味だったらしい。
悪酔いするならば飲むのを止めれば良いと、自分でも思う。しかし止められない。眠れないからだ。
「――ああ、起きられたのか」
扉を開けて入ってくると少し驚いたように言った。
「……レニー。すまないが吐き気止めか、鎮痛剤か、」
「勿論持ってきたさ。ちなみに鎮痛剤をね」
薬とグラスを乗せたプラッターをサイドテーブルに置いてもらい起き上がると、さっきまで胃の中にいたナメクジが喉元までせり上がってくる。
「……レニー、その……ぅ、」
「エチケット袋がご入用か? 残念、それは持ってきてないな」
手を取り立たされると、トイレに案内された。これでもまだましな方だが、芳香剤の匂いに噎せて盛大にナメクジを便器にぶちまける。レニーはハンカチで口を押さえながらも、優しく背中をさすってくれた。
「……落ち着いたか?」
「ああ、吐いたら楽になった。すまないな、人の便所で」
「構わない。それより、今日も探しに行くのか?」
「……当然だ。一日も早く会いたいんだ」
汗が滲んだ肌着を脱いで、クローゼットからレニーの服を物色する。
「献身的というか、盲目的というか……」
「これ借りていいか?」
「どうぞ。……探しに行くって言うなら俺も同行するつもりだが、またこの近辺を男二人で楽しく散策して家に帰るって意味なら遠慮したい」
レニーの口ぶりは皮肉めいていた。適当に髪を手櫛で整え、それからレニーのハイネックに指をかけてずり下げてやる。首筋には紅い花。
「昨日俺を放ってお楽しみだっただろ。日中だけだ、付き合ってくれ」
「……本当に俺のこと好きだな。付き合ってやるよ。但し」
今日は情報屋の所へ寄らせてもらう。
真昼間の午後一時。しかし路地は薄暗く空気は冷えている。洞窟の中と似ていた。
レニーの案内で道を進む。自分の着ている服から漂うギルティプールオムの香りに混じって、煙草の臭いが鼻に嫌悪感を残した。
「着いたぞ。……ハイ、元気だったか? フィル」
狭い路地を進んだだけで広い場所に出たわけではなかった。路地の突き当たり、古びたボトルコンテナを重ねて作られた椅子に腰掛けていたのは煙草を吸っている――未成年?
「オレんとこに来るってことは面倒事があったんだな? レナード、横のビビってるお坊ちゃんはどうした」
ハンチング帽に隠れて全ては見えないが顔は幼く、十六ほどに見えるが声や仕草、何よりその目が子供には見えなかった。凝視していると兎のように赤い目がこちらを見る。
「リック、こちらフィリップ・オルコット。御歳二十七歳、人生の先輩だ」
聞いて思わず苦笑が漏れる。フィリップを見てみれば帽子を取って勝ち誇ったように笑った。
「フィル、こちらエリック・ウェルシュ。ちなみに二十五。今日用事があるのは俺じゃなくリックの方だ」
「へえ。オレに用事? このお坊ちゃんがか」
吸っていた煙草を壁に押し当て火を消すと、立ち上がってこちらへ歩む。そして目の前に来ると頬を掴んでぐいと左右に振り回し、顔を確認した後はぐるりと身体を回され、何かを確認するように頭から爪先まで舐めるように見た。拳を自らの唇に押し当て、ふむ、と頷く。
「OK、分かった。聞こう」
「話が早くて助かるな、フィル」
フィリップは積み上げられたボトルコンテナを一つずつ退かした。と、その奥に扉が現れる。
「メシ食っていけよ。どうせすぐには情報は渡せねえ」
フィリップが開けた重い金属の扉の中は居酒屋のようになっていた。
「……なるほどなぁ」
白身魚のフライを口いっぱいに入れたフィリップは口の端のタルタルソースを指で拭い、レニーにサラダの皿を押し付けた。
「整理すると、エリックの昔の恋人を探すのに、その情報が欲しいと。五年前に別れたものの、未練があって話がしたいが連絡が取れない。で、レナードが連れてきたってわけか」
頬張ったチキンの肉汁がまだ本調子の出ない胃を攻撃するが、ビールジョッキを掴む手は離れない。レニーはフィリップのサラダを押し付けてきた。仕方なくレタスで脂を流す。
「昔の恋人を探すっても、もう別れたんだろ? すっぱり諦めちまった方が爽やかってもんだと思うが」
「……俺にはあいつがいないといけないんだ」
酔ってきているのが自分で分かった。泣く気も無いのに涙が落ちる。手元のチキンを見つめていると、フィリップの呆れた笑い声。
「こりゃ、重症だな。恋でも愛でもない。依存だ」
「だろ。俺の手には負えないよ、幾ら慰めたって効きはしない」
「オレだって勘弁だね。ただ……可哀想だ。やれることはやってやるよ」
フライを完食したフィリップはジョッキを空にして、ハンチング帽を手に取った。レニーは気付かぬうちに完食しており、残しているのは自分だけだったがもう食べられそうになかった。レニーが財布を出そうとするのを手で制し、フィリップが三人分の食事代をテーブルに置く。
「年上のプライドか?」
冗談っぽくレニーが言うと、フィリップはレニーの足を軽く踏みつけた。
「可愛くねえな。後で請求すんぞ」
「はいはい、悪かったよ」
「……フィリップ、ありがとう。ご馳走様」
「そうそう。こういう反応が欲しいんだオレは」
幾分かフィリップの方が身長は小さかったが、器の大きい人だと思った。
「あ、言い忘れてたがここはオレの仲間がやってる店だ。いつもオレが拠点みたいにしてる。いつもはガードでボトルコンテナを置いてるが、オレの名前を出せば入れてもらえる。メシ代浮かすならここだぜ、安いし美味いし人がいない」
見かけによらず随分と頼もしい。レニーがあ、と声を零した。
「俺の家で食べるよりずっと良いな。俺は料理は提供される方が楽で良い」
レニーの手料理は簡素なものが多かったが、そういう理由らしい。
「次から食事はここで摂ることにする。俺もフィルって呼んで良いか?」
「何とでも。来るときは電話くれよ、番号教えるから」
「俺には教えてくれなかったのに、リックに甘いじゃないか」
「お前は教えなくたって持ってただろ。エリック、手を出せ」
言われるがまま手を出すと、がしりと掴まれ黒の油性ペンで数字を書かれた。
「いつでもかけてこい。あと、何かしら手に入ればこっちからかける」
「助かる、ありがとう」
フィルと別れ、居候しているレニーの家に着くと熱いコーヒーを淹れてくれた。
「……昨日、ふと思い出したんだ」
それは独り言に近いものだった。
「別れる直前、あいつは俺に「まだ好きでいさせて」って言った。意味が分からなかった。上手く返事ができないでいると、次の日目の前から消えた。それを昨日、ふと思い出した」
「俺が愛を注いでもらってる間に、そんなことになってたわけか」
「探したんだ。でも昨日も見つからなかった、どこにもいないんだ……」
「大丈夫、見つかるさ。何も地の果てへ行ってしまったわけじゃない」
「……そうなら、良いな」
カフェインのお陰なのか昼前に飲んだ薬のお陰なのか、頭痛はどこかへ消えていた。
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