Rick
ブザーを聞いて、扉を開けば兎がいた。手を差し出して握手をする。
「よお、エリック」
「フィル! 久しぶりだな、そっちに顔を出さなくて悪かった」
「具合が悪かったんだろ? 無理して来る必要は無いからな。こっちから来た」
フィルはハンチング帽を取るとケーキの入ったボックスを手渡した。今日はいつものラフな格好ではなく、ジャケットを羽織っている。
「手土産。チェリーパイだ」
「ありがとう、三人で食べよう。レニー、フィルが来たぞ」
リビング目がけて言うと、聞こえてるよ、と声が返ってきた。
「お邪魔します、と」
レニーはコーヒーを飲みながら目だけフィルに向けた。フィルが手に持っていたハンチング帽でレニーの頭を叩く。
「客だぞ、もてなせよ」
「俺は今怠いんだ。チェリーパイは後でもらうよ」
「怠いってどうしたんだ?」
フィルの問いにはレニーじゃなく俺が答えた。フィルに腰掛けるように言ってコーヒーを淹れながら言う。
「俺が起きたのが十一時頃だったんだ、そしたら貧血を起こして自室で寝ていた。フィルが昼頃に来るってことは書き置きで知ったから、昼前に起こしたんだ。そしたらこの通り」
「なるほどなぁ。貧血、まだ良くなってなかったのか」
「お陰様でね。最近よろしくやっていないし……」
「それは関係ねえ……って、あのお前がぁ? 珍しいな、ハイネックの仕事が無くなったじゃねえか」
「馬鹿、ハイネックは隠す為だけに着てるんじゃないよ」
ずず、とレニーがコーヒーを啜る。フィルにもコーヒーを渡して、チェリーパイを三つに切り分けた。
「エリックは酒はやめたか?」
「いや……レニーが酒を隠すからレニーがいるときに少しだけ」
「良いことじゃねえか。酒は飲んでも呑まれるなってな」
チェリーパイを、持ってきた本人が一番に頬張った。ソースが口の端に付くのを親指で拭う。
「あ、フィル、頼んだあれは……」
俺の言葉にフィルは慌ててコーヒーを飲み込んで言った。
「……ん、なかなか、難しくてな。まだ固まってねえ、悪いがもうちょっと待ってくれ」
「ああ、そうなのか……」
恋人だった俺が一年かけて探しても見つからないのを、他人のフィルが探したって、そう簡単には見つからないと分かっていた。さほど落胆はしていないものの、やはりチェリーパイを突くフォークが鈍くなる。
レニーはやっとコーヒーカップから手を離すとチェリーパイをピザのように掴んで一口頬張った。唇に付く赤いソースを舐めとる。ごく、と飲み込むと俺の目をじっと見つめて言った。
「明日からまた探しに行こうか」
「明日からまた探しに?」
フィルが呆れたように言った。真意は分からない。
「文句が?」
「いや…………まあ、お前らがそう言うなら、何でも良いけどよ」
背もたれに寄りかかって腰を反らせたフィルはもう完食していた。コーヒーのおかわりをせがまれる。俺がフィルのカップを手にキッチンへまわると、フィルはとんでもないことを口走った。
「レナードはまだエリックに手出してねえのか」
カップを取り零しそうになり、慌てて持ちなおした。
「…………」
レニーを見れば恐ろしいまでに冷静にコーヒーを啜り、ポケットから煙草を取り出すと咥えて火をつける。
「俺のことを誰彼構わずに抱く残酷な男と思ってないか。心外だな」
いつもの余裕そうな笑みはそこに無い。頬杖をついてカップの中の真っ暗な液体を眺めている。
「心外も何も事実だろ。オレが証人だ」
目を瞑って腕を組み溜息を吐いたフィルの顎を、レニーは指でかけて上を向かせた。咥えた煙草や目のぎらつきに思わず手が止まる。
「証人ね……」
貧血で気力が無いからなのか、それとも怒りか、あるいは。レニーの小さく、しかし確かな呟きにフィルも若干目に怯えを見せていた。
「手を離せ、本気にすんな」
「心配しなくてもお前にはもう手は出さないさ、そんなに怯えなくてもいいだろ」
喉でゆるく笑い、煙をふう、とフィルの顔に浴びせた。見てはいけないものを見たような気持ちでコーヒーをやっと出す。
「…………フィルはレニーに抱かれたことが?」
揶揄うつもりで言ったわけじゃなかったが、フィルは肩を竦めて答えてはくれなかった。明るい調子でフィルが言い直す。
「あ、そういや、フライとチキンサンドがまた安くなってる。明日探しまわって疲れたら寄って行ったらどうだ? 久しぶりに酒ひっかけんのも健康のうちだぞ」
「ああ。じゃあ、レニーと明日の夕方にでも行く」
待ってる、と言いながらフィルは立ち上がった。
「もう帰るのか?」
「お、寂しいか? 仕事があんだよ、残念だけど明日な」
ハンチング帽を被り直し、レニーの頭と俺の頭を順番に優しく撫でてフィルは帰った。
フィルが帰ると、レニーはベッドへ行った。読書でもしようかと本棚を覗いたがどうも、どの本も読まれたくないらしい。
やることも行くところも無くなって、レニーと同じくベッドへ倒れ込む。眠気も無いが、何もしないより寝ている方が身体にだって良い。
無音で、ただ静寂で。
耳鳴りがしたような気がした。このままベッドに溶けて、何もかもと一緒になって消えていけたらどんなに幸せかとも思いつつ、しかし、ここで消えてレニーがどう思うか、それも考えれば気が咎めた。
溜息がやけに大きく聞こえた。
眠れない、昼でも、夜でも。
消えたあいつは今どこにいるのか、何をしているのか、気になり始めると止まらない。飛んでしまったミートソースの染みがなかなか落ちてはくれないように、思想にできた染みはいくら洗っても、いつまでも落ちない。
「……リック?」
足音に気が付かなかった。扉を開いてレニーが蒼白い顔を覗かせる。身体を起こすとレニーは隣に腰掛けた。
「静かすぎたから、心配したよ」
「寝てなくて良いのか?」
「ああ……コーヒーを飲んだせいで眠れなくてね」
「ホットミルクをいれてくる」
「待て、俺がいれてくるから座って」
肩を押されて沈む。レニーはゆっくりとした足取りでキッチンへ向かった。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう」
暖かいミルクは心を落ち着ける。不意に襲った悲しみをこうして誤魔化す。
「君も眠れなかったのか?」
「眠くないのに横になってたんだ。眠れるわけがない」
笑ってみせると、レニーは背中をさすった。
「……今は、吐いてない」
「吐いてなくたって、さすってやるさ」
レニーが青い目で深く見つめてくる時。大抵、俺は泣いていた。泣きたいわけじゃない。いつだってそうだ。
「リック、ほら顔を上げて」
「……、」
優しさが傷に滲みて痛い。レニーは頭を撫でた。ゆっくりと顔を上げると頬にキスを落とされる。
「キスは痛みを和らげるって言うだろ?」
「唇には、しないんだな」
「してほしいのか?」
「……口が寂しいだけだ」
煙草を吸うなと言われてから間食が増えた。口が寂しいから。
レニーは唇を親指で押し、開かせたりなぞったりと遊ぶように触れる。その表情は少し――。
「……」
「目を逸らすなよ。言ったのは君だろ」
「いや……飢えてるなと思ったんだ」
「飢えてる? 何に」
「女か、それか……」
「つまり快楽に? 飢えてると言えば確かにそうだろうね」
ぐ、と顔が近づくと吐いた息を食べられた。
「……逃げないんだな」
レニーが顔を離してハイネックに触れる。思わず苦笑が漏れた。
「俺も多分飢えてるんだ。……あいつにも会えずどこにも行けず」
頬から後頭部へ手が滑らされた。舌舐めずりをするレニーの目が、一切の挙動を許さない。
「夜に泣く子がいるから目を離せないせいで、ずっと満たされないままなんだ」
「……それは俺で満たせるものなのか?」
し、と言葉を断たれる。
「黙って」
深いキスで力が抜ける。酒より煙草より、ずっと楽で幸福で、気持ちが良い。触れられる素肌に汗が滲む。
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