Lennie
自分で自分の背中を見られないように、恐怖は自分一人ではどうしようもないものだと俺は思う。
だから、俺が。
悲しみも苦しみも知ってる俺が。その恐怖を取り除いてやれると自負していた。その自負が、偽善が、今から崩れる。
「……あいつが原因? なぜ?」
リックはシーツを軽く握った。傷ついた様子は無さそうだったが、少し腹を立てているように見えた。俺の、人と交わって身につけた直感。
「落ち着いて、冷静に聞いてくれ。これは俺の……勝手な想像、だから」
それが限界だった。
「……分かった」
「きちんと話す。だからまずは退院しよう。手続きをしてくる、待っててくれ。歩けそうか?」
「ああ、大丈夫。ありがとう」
近くに置いておいた水を飲んだのを横目で見て、それから手続きを済ませた。
帰りの車で流していたレニー・クラヴィッツの「Looking Back On Love」は、悲しくなるほどよく聞えた。
着いてから話を再開するまでにどれだけの回数心臓は早鐘を打っただろう。
緊張というべきか、焦燥というべきか。向かい合って座ることなんて数え切れない程あったのに。
「……で、話の続きは?」
リックに促されて、やっと口を開いた。
「ああ。……まず、原因だと思った理由だが……その、少し疲れてただろ」
「……? そうだったか?」
「連日探しに出かけたりしただろ、それに……ほら、倒れる前日は海に行って、昔のことで少し泣いたりしていた」
「そうだな。それは覚えてる」
「良かった。……医者が言っていたんだ。精神的な疲れから一部の記憶が抜け落ちたりすることがあると」
「つまり、あいつを探すことで疲れたから、記憶が抜け落ちたって? でも、あの頭痛はどう考えても普通じゃなかった」
リックは苛立った様子は無かったが、心から疑問に思っているようだった。核心を伝えていないのだから、当然と言えば当然だ。曖昧な言い方では伝わらない。
「…………」
どう言えば良いのか考えた。どう言ってもだめな気がした。
「レニー」
いつもと変わらないリックの声なのに、俺は酷く動揺していた。俯くと、リックが立ち上がって俺の隣へ腰掛ける。
「……そんな情けない顔するなよ」
かけられた言葉があまりに優しいもので、思わず目を見開いた。
「……どうした、って……」
「医者から色々聞いてるんだろ。ちゃんと全部話してくれ」
それは、今の生活の終わりを告げる言葉にも聞こえた。
覚悟を決めなくてはならない時、人は不思議と。
「……じゃあ、長くなるからコーヒーでも淹れよう」
笑って席を立った俺にリックは笑顔を返した。
「医者が言ってたことだが、頭痛は一時的なもので繰り返すことは無さそうだと言っていた。ただ原因が分からないからまた頭が痛くなることがあればすぐに来るようにと。退院はできるが無理はしないこと、と念を押された。……今は体調は?」
「大丈夫だ」
「OK、……それと、記憶の混濁、喪失については、病室でも言ったとおり大きく言って心因性と外傷性がある。精神的にショックなことが起こると、脳は自分自身を守ろうとしてその記憶を追い出すことがあるとも言っていた」
「記憶を追い出す……」
「そう。部分的な健忘、つまり記憶喪失のことだが、それらは心因性もそれなりに多いらしい。医者が言っていた例で言うと、例えば目の前で人が死んだりするとそのショックと記憶をまとめて無かったことにしてしまうんだそうだ。外傷性は読んで字の通り頭をぶつけるなどして傷がついて記憶を失くす場合だ。でも君は倒れる前、どこもぶつけたりはしていなかったね」
「そうだ、本を読んでいたから。ひとまず外傷性じゃないことは分かった。他に記憶喪失には原因になることが?」
「あとは薬剤性のものもある。精神に作用する薬や、睡眠薬なんかを飲んだときになってしまうことがあるようだ。それと酒を飲んで記憶を失くすこともある」
言うとリックは苦い顔をした。
「それは、心当たりしかない」
「だが最近は俺が管理してたから、飲んでないはずだ。……まさか隠れて?」
「そんなことしない、当然だろ」
コーヒーを煽った。
「……三年前出会った時、君は酷く弱ってた。道端で吐いてただろ、覚えてるか?」
「ああ、なんとなく。やけに顔の良い女連れが声をかけてきたから余計に吐き気がした」
ジョークに笑い合う。
「……君は五年前から恋人を探し始めたって言ったね。出会うまでの二年間どう過ごしていた?」
「………………」
リックは口元に手を当ててかなり考え込んだ。何か考えている時ただただ無言になることは前から知っていたが、それでもこの場では俺に緊張感を与えた。沈黙が気まずく感じたのは三年振りのことだ。
「…………。すまない。思い出せない」
「何一つ?」
「何も思い出せない。レニーと出会ったところからしか思い返せない」
思った通りであったが、その通りにならないでほしかった。
「酒を……かなり飲んでたと思う。でもそれ以外思い出せない」
「五年前よりももっと前のことは? 恋人と付き合っていた頃や子供の頃のこと」
「全てを覚えてるわけじゃないが、それはなんとなく覚えている。……五年前から三年前の間が思い出せない」
「……。リック」
心臓の辺りが、妙に重く感じる。
「俺が今から言うことは全て本当のことだ。受け入れられないかもしれないが、きちんと聞いてほしい」
「今更。何だ」
息が苦しくなる。
「……君の恋人はもう、この世にいないんだ」
リックの顔は、俺には見ることができない。嘘をついてまで隠した刃物を突きつけてしまった。
「……冗談、だろ」
「冗談じゃない。こんなことジョークでも言えない」
「じゃあ、酔ってるんじゃないか? コーヒーと間違えて……」
「違うんだよ、リック。思い出すんだ、君が夢で見たものを」
残酷で、最低で、真っ当なこと。
「君の恋人は五年前に、事故で死んだんだ。葬式だってやった」
「……嘘、だ。だって、……」
「……これが嘘なら、どんなに良いだろう」
そう、これが夢なら。
「だって一緒に探したじゃないか! フィルにも探してくれるよう頼んだ、倒れる前だって探した、それは……、それは俺を、死んだ恋人を馬鹿みたいに探すのを見て楽しんでたのか」
「それは違う、リック。落ち着くんだ」
「落ち着けって? 落ち着けるわけがない、あいつは生きてる、君だってあの夢を、それは夢だって言ってくれたじゃないか。俺に嘘を吐いたのか?」
リックの顔は、怒りでも失望でもなく、悲しみで歪んでいた。
「嘘なんか、」
吐いてない、なんて嘘は言えない。
「……リック、」
「…………」
「君は、薄々、気付いてたんじゃないか?」
俺の言葉が自分の心臓を刺す。手が震えていた。
水の中に沈められてしまったように、お互いに、息が止まったように黙った。それから、リックはコーヒーを飲み干し、テーブルに静かにそれを置くとす、と息を吸った。
「……昔話、しよう」
それはあまりに静かで冷たいリックの独白、最初の言葉だった。
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