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 コードを入力して解除、鍵を差し込み、最後にもう一度コードを入力、解除。三重の警備を解いて研究室に入った。

 シャワーと水道も完備したこの、僕しか入れない研究室が家よりも安堵できる場所だった。上に無理を言ってこの研究室だけはコンクリートで部屋を覆い防音加工を施してもらった甲斐があって、他の研究者との無駄な接触も減っている。朝起きて夜眠るまで、一年三六五日(閏年なら三六六日だが)、僕はこの「知の塔」で暮らしていると言っても過言でない。

 円柱型の研究特化施設、アステリラが誇る最高の知識の集合体。正式名称は「インベスティガシオン」、しかし長いため民間人及び学者はみな、「知の塔」と呼んでいる。全面強化ガラスで作られた、半透明の、一見洒落た建物だ。

 「知の塔」には研究の為に必要なもの、施設、環境、全てが揃っており、様々なタイプの学者や研究者が集まっているが、中でも二十三階から上は、一般の人間が考え学ぶことはまず無いであろう分野の研究が為されている。例えば、結晶現象学だとか。

 作業机の上、鍵のついたガラスケースの中に入れた牡丹の花が光を反射して煌めいている。

 キャスター付きのイスに腰かけ、思い切り凭れる。今日中に仕上げなくてはいけない資料があるのに、妙に疲れていた。まだ午後十一時ではあるがもう寝てしまおうか。

 シャワールームの横、着替えなどの置いてある雑多な棚の近くに置いたベッドに目を向けた時だった。

「サリーニ博士、サリーニ博士」

 無線の子機から聞こえてきたのは呼び出しのブザーと若い男の声。ああ、そうか。

 身を起こして、プレスボタンを押しながら言った。

「助手君か」

「そうです。客間に入れてください」

「今鍵を開ける、一分待って」

 研究室から重い腰を上げて出ると、ガラス張りの客間の向こう、共通回廊に立つオリーブグリーンの髪の男がすぐ目に入る。カードキーで開けてやると、その整った眉を歪めて言った。

「サリーニ博士、今日で俺の研修は三日目です」

「? そうだったか、そうだったね」

 カレンダーには丸印が書いてあった。ソファに腰かけると、助手の男は一礼してから対面に座った。

「いい加減名前を憶えてください、助手君と呼ばれるのは不快です」

「ああ……」

「ライネリオ・カナレスです。下の名前で気さくに、とは言わないので固有名詞で呼んでください」

「分かったよ。じゃあ短くカナ君で」

「カナ君……」

「まだ不快かな?」

 純粋に聞いたつもりだったのだが。カナレスは目を逸らす。

「いえ、博士がそれでと言うならそれで」

 カナレスはまだ少し不満そうな顔をしていたが気づかないふりをして、コーヒーを淹れさせる。

「ミルクや砂糖は必要ですか?」

「要らない、ブラックで」

 インスタントコーヒーの味も、丁寧に淹れられたコーヒーの味も、さほど変わらないように感じた。むしろ時間も手間もかからない分、インスタントの方が効率的だ。飲み下してから、ふと胃の違和感に気が付く。

「そう言えば何も食べてないな」

「え、朝からですか?」

「いや。昨日の昼から」

「昨日の昼から? 一緒に食事を摂ってから何も口にしてないんですか?」

「そうなるな」

 ダストボックスの方に目をやる。栄養ドリンクとサプリの空き箱が顔を覗かせていた。目敏いカナレスがダストボックスを見る。

「駄目じゃないですか。こういうのは不足した栄養分を摂取する為にあるのであって、」

「分かってる。でも時間が無かった」

「……それなら俺がデリバリーを頼みますから」

「君に連絡をする暇も無かった」

「はあ、そうですか……」

 胃の違和感は空腹だったらしい。しかし食欲は大して湧かない。カナレスはタブレットを取り出すと、すぐさま軽食を注文したようだった。

「あと五分で届きますから。食べてください」

「カナ君は僕の監視係なのか、それとも助手なのか……」

「研究助手です、本当なら」

 周りの人間の中でカナレスは見目の整った方だと僕は思う。少なくとも服装が乱れていないし、何より清潔感がある。そのカナレスの顔をしょっちゅう歪めるようなことを僕は言っているらしい。会ってからまだ笑顔を見たことがない。現に、今も眉を顰めている。

「――何ですか、サリーニ博士」

「いいや。食事の前に要件を聞こうか」

「博士の安否を確認しろと言われたから来ました。案の定食事を摂っていらっしゃらないのでこうして」

「説教はいい。資料を取りに来たんじゃないのは意外だ」

「資料……ああ、資料ですか。それもでき上がっていれば持って帰らせていただきます」

 研究室の方を見やる。まだ四分の一が白紙のままの資料が思い出された。

「まだできてない。何だか身体が重くて書く気になれない」

「空腹だから、栄養が足りてないからです。食事が済んだら俺も研究室に?」

「それは……客間にいてもらえた方が」

「そうですか」

 多くを聞かず、しかし沈黙を作らないあたりがカナレスを採用して良かったと思える点だ。深くこちらのパーソナルスペースに踏み込んで来ようとしない淡泊さが心地良い。

「ところで、服の襟元が気になるんですが」

「襟元? 何が」

「妙に開いてませんか。気にならないのなら構いませんけど、女性は目のやり所に困ると思います」

「女性と接するシーンがここでは無いし、思春期じゃあるまい。君が気になるんじゃなく?」

「俺も気になります、風邪をひきそうで」

「あまり首の辺りに布を置いておきたくないんだ」

「なるほど。……それは苦しいからですか?」

「苦しいからと言えばそうだし、違和感とも言える」

 開いた首元に触れると少し冷えていた。カナレスが口元だけ薄く笑う。

「前世で首を絞められて死んだ人は、首に何かが当たるのは嫌がると言いますね」

「カナ君はそんな俗説を信じてる人間だったのか」

「いいえ、俺は前世なんて無いと思ってますよ。でも話の種には面白いでしょう」

「へえ、僕を退屈させないように? すごい気遣いだ」

「これは処世術ですよ、博士」

 カナレスが唇を薄く開き、口角を上げた。やはりこの助手の笑顔は見られないらしい。

 足を組み替えた時、ブザーが鳴らされ軽食が届いた。すかさずカナレスが立ち上がる。支払いは自動で、注文の時に済ませていたらしい。そのままテーブルへ置いた。

「早かったですね。俺は済ませてから来たので、構わずどうぞ」

「十一時半だし、食べていなかったら君こそ空腹だろうな」

 立ち上がって薄めたアルコール消毒液をドアに向けて散布し、客間の隅の手洗い場に立った。

「覚えておいてくれ、コーンクリームスープは好きじゃない。カナ君飲んで」

「好き嫌いしないでください、子供じゃないんですから」

「嫌いなものっていうのは身体が求めてないものなんだよ、これは人生において大事な知識だよカナ君」

「はあ、まあもらいますが」

 軽食と言っても、手のひら大に切り分けられた二枚のローストチキンとトマトのサラダ、コーンクリームスープに主食としてマフィンがプレートに乗っている。僕の二食分はありそうなボリュームだ。

「……こんなに食べきれない」

 ソファに座り直し、棚から取り出したナイフとフォーク、スプーンをペーパーで拭きながら言った。カナレスが溜息を吐いた。

「ゆっくり、少しずつちゃんと全部食べてください」

「いただきます」

「ああ、それと、今日はここに泊まっていきます」

「泊まらせるような場所は、ん、無いよ。ソファで寝るつもり?」

「飲み込んでから話してください、……床でも構いません。資料ができ上がるのが待てないので」

「もうすぐ終わる。……結晶化の成功と失敗の確率の話なら殆ど書きあがっているしデータの採集ももう終わっている」

 カナレスはスープを飲み干すと、ソファ横に置いていた鞄から紙の束と筆記具を取り出す。

「眠くなったら勝手に眠りますから、サリーニ博士はどうぞお気になさらず」

「……気になるな」

「それより食事を済ませてください」

 助手のくせに随分と上からものを言う。しかし妙に謙って卑下した喋り方をする人間よりはずっとましだった。

 

 ローストチキンもトマトサラダも胃に収めるのに精いっぱいであまり「美味しさ」というのは感じられなかった。何の問題も無く食べきれたのだからきっと不味くはないのだろうが。

 食器をまとめて、テーブルの端に追いやった。カナレスのノートを手に取る。

「あ、ちょっと博士」

「……へえ……なるほど、……」

 形の良い字が整列している。文字に性格が出るというのは本当のことらしい。ぱら、ぱら、と捲っていると一つ目を惹く言葉があった。

「この、花の結晶化の実験は君が実際にやったことを?」

「ええ、まあ、そうです」

「なるほど……」

 結晶化しやすい花の種類は何か、それは何故なのか。分かりやすくまとめられていて、これは資料として役立てられる出来栄えだった。

 黙って読み込んでいると、カナレスはちらちらとこちらを垣間見ては手元の資料に目を落とす。博士である僕が黙り込んで読んでるものだから、きっと不安なんだろう。褒めてやるべきだが、どうも言葉が出なかった。痺れを切らせてカナレスが口を開いた。

「何か、気になる記述が?」

「いいや、ああ、ある意味ね。すごく……」

「すごく、何です」

「良くできてる。上出来だ。きちんとした形式に変えれば十分資料になるし今後の足掛かりにもなる」

「そ、そんな、サリーニ博士の実験を元に考えただけで……」

 珍しくカナレスは目を見開いて驚いてみせた。口ごもって、褒められたことが無いわけではないだろうに、照れているように見える。やはり若い。

「この、牡丹もカナ君が実際に結晶化したのか」

「はい。原種のものを使いたかったので原産国から取り寄せて実験を」

 メモ書きの横のスケッチ、それから小さな写真には自分が小さい頃から持っているあの牡丹の花によく似た花があった。

 ――ダリラ。

「花の結晶化の実験から、博士は結晶現象学を学び始めたと聞きました。十年ほど前でしたよね」

「ああ。牡丹の花を結晶化したのがきっかけだ」

「牡丹を? それでそんなに読み込んでたんですか」

「思い入れのある花でね」

 言ってから、昔話を始めそうな雰囲気を自分で作ってしまったことに気が付いた。カナレスは目を輝かせて、僕の今の脳を作り上げるきっかけを聞こうと身構えている。

「……まあ、その話は夜が明けたら資料を渡すときにでもしてあげるよ」

 ノートをカナレスに返し、消毒液を手に馴染ませる。立ち上がって、三重にかけられたロックを解除した。機械音が客間に響く。

「ところで、カナ君」

「何ですか、サリーニ博士」

「君は永遠を信じるか?」

2018年9月