Data,2

 

 時計の秒針が集中力を欠くからと音の出ない時計しか使わない。見てみると午前三時になっていた。カナレスはもう寝ているだろう。客間の電気が消えている。

 結晶現象学の道を進みたがっている学生に向けた「結晶現象学のすゝめ」、それを簡単に冊子としてまとめたものを今度大学院で講義をする際に配ることになっているらしい。固体の結晶化にあたり大前提として必要な宝化細菌の存在、その取扱や、固体を結晶化することのメリットデメリット等。書くことは尽きないが、それを学生にも理解できるように書き下してやるのが課題だった。その為にカナ君のように、僕にも学生にも近い存在に内容の確認、校正、アドバイスなどをしてもらわなければならない。

 自分が学生だった頃はもう結晶現象学について大方の知識は得ており、あまり難しい分野だと思ったことが無い。だからこそ、この分野を難しい、とっつきにくいと考える学生に理解させ興味を持たせるというのは困難なことだった。

 まだ起きていればすぐにでも資料を見せようと思っていたが、案外時間がかかってしまった。僕ももう身体を休めたい。背中が悲鳴を上げている。背もたれに身体を預けると、イスも悲鳴を上げた。そろそろ換え時かもしれない、と思った時だった。客間に電気がついて、コンコン、とノックの音が鈍く鳴る。

「……起きてますか、サリーニ博士」

「…………」

 返事をするべきか否か。もう今すぐ眠りたい気持ちとカナレスに資料を渡してやりたい気持ちとの二律背反に逡巡する。

「サリーニ博士、もう寝てらっしゃるんですか?」

 声に罪悪感が膨らむ。

「……起きてる、今そっちに出るよ」

 結局は仕事を優先してしまった。資料を持って客間に出ると、カナレスがコーヒーを用意する。

 カナレスはさっきまで一応眠っていたらしい、机上が綺麗に片付けられていた。

「おはよう。午前三時だ」

「おはようございます。サリーニ博士、目の下、隈が酷いですね。一睡もしてないんですか?」

「資料作ってたから当然。はい」

 資料を手渡し、ソファにどさ、と倒れるように腰かけた。熱いコーヒーが喉を通り目を覚まさせる。

「ありがとうございます、……え、これ……博士一人で、一か月かけずに作ったんですか?」

「? そうだけど」

 答えてから、ふとシャワーを浴びたくなった。今日はまだ三回しか浴びていない。……というか、もう昨日のことになってしまった。

「すごい……」

 感嘆の息は嘘じゃないらしかった。立ったまま荒くページを捲っては戻し、捲っては戻して読み耽っている。

「座ったらどうだ、そんな立ったままじゃなく」

「ああ、はい、分かりました」

 言いながら視線は手元に。他の学者ならこの様子を見て達成感や助手への好感を持つんだろう。

「少しシャワーを浴びてくる。読んで、何かあればメモをとって待ってて」

「はい、分かりました」

 空返事なのも分かっていてシャワーを浴びに研究室へ戻った。

 

 シャワーを浴びている時間、一番自分が綺麗でいられる気がして安心する。新しい服に身を包んで客間に戻ると、戻った瞬間カナレスは口を開いた。頬が上気している。

「博士、これを無料で配るなんて本気ですか? 相応の料金を取るべきです」

「帰って早々に……それは配る為に書いたものだ。それに講義の為に大学院から相応の額を頂戴している。それで十分、研究費に回せる」

 濡れた髪を左に流し、タオルで絞る。カナレスは冊子をもう自分の物にするつもりらしい。

「助手に応募して本当に良かったです。給料が良いだけじゃなく、こんな学びの場になるなんて」

「金目当てだったのか。まあ、そうだろうね」

 冷めてしまったコーヒーを淹れなおすのに立ち上がろうとすると、カナレスが制した。「宝化細菌の活性温度が……」「水素結合との相違点がこんなに……」などとぶつぶつ呟きながら淹れられたコーヒーを飲む。ソファに凭れ、髪先を弄んでいるとカナレスはこちらを見た。

「博士、資料を渡すときに話すと仰っていたことですが」

「覚えてたの……まあ、それなら話そうか」

 足を組み替えて、研究室に目をやった。

「ダリラという妹がいてね。もう亡くしてしまったが。良い兄とは言えない僕に懐いてくれて……牡丹を結晶化したのがきっかけだと言っただろう。その牡丹は妹が摘んで贈ってくれたものだ。元々、僕は結晶化のあの、魔法のような瞬間が好きでよくミョウバンや塩の結晶を観察していたよ。それが趣味だった。結晶化について学ぶにつれて、条件を問わず結晶化できたらいいなと思ったんだ。それが研究を始めたきっかけ。大学院に行って博士号を取ると決めて、ダリラはそれからすぐに眠るように息を引き取ってしまった。ダリラは僕の研究を一番に、誰よりも応援してくれていたから、それに報いたくてこうして研究を続けている。──どうだ、僕の感動の昔話は」

「……俺にも妹がいるんです。もちろん生きてますが。だから……胸に来るものがありました」

「それは悪かったね」

 薄く笑うと、カナレスは真剣な顔で言った。

「……その牡丹、見せてもらえませんか」

「それは研究室に入りたいという意味か?」

「いいえ、どちらでも。嫌だと言うなら構いませんが」

「押しが強いのか弱いのか、分からないな君は」

 許して構わないだろうか。問題は無いだろうか。いいや、しかし。

「……君が清潔で弁えた人間であることはこの三日ほどでよく解った。それに、似た者だということもね。だが研究室は、研究室だけは駄目なんだよ」

「はい、構いませんよ。……博士のルーツが聞けて嬉しいです」

「……そう、それなら良かった」

 聞きたかった話を聞いて、かつ資料も手に入れて満足したのかカナレスは欠伸を噛み殺す。

「すみません、みっともないところを」

「もう眠いんだろう。僕ももう眠いんだ、シャワーも済んだし眠りたい」

「長居しては、博士がまた睡眠不足になりますね。では失礼することにします」

「ああ、ではまた明日」

 カナレスが客間から出るのを見届けてから研究室に戻る。ひんやりとした空気。

 生きていく上で弱みというのは少ない方が良い。大切な人が増えるのは、守るべき、弱点を増やすことと同義だ。カナレスはよくできた男で人としても助手としても信頼に足ると感じている。でも、踏み込ませるわけにはいかない。隙ができる、そこから亀裂ができる。

 研究室のその奥の部屋。センサーに手のひらをかざし、カメラに指を向け、最後に顔を映す。甲高い機械音と空気の抜けるような音と共に扉が開いた。

 人が一人眠るように横たわるカプセル。その中の妹、ダリラの半身と、カプセルを包む結晶が青白い光に照らされて煌々と輝いている。奇麗だ、とても。でも、まだ完全じゃない。

 絶対に知られてはいけない。この研究は――人体の結晶化の研究は、誰一人として知ってはいけないのだ。それがたとえ、助手であるカナレスでも。

2018年9月