Data,3

 

 サリーニ博士の距離の取り方は見てすぐに分かるものだった。物理的な距離もそうだが、目に見えない距離の方も。

 学者には変わった人が多い。だからあまり気にはしていなかったのだが、サリーニ博士は潔癖症のきらいがある。自覚しているのかしていないのかは曖昧だ。俺を含めて四人の(きっと面接が面倒ですぐに打ち切った)面接のときにそれが分かった。握手を嫌がる顔、少し引いた肩。俺は知らない人間と握手をするのが嫌で、もちろんしなければならないのならするが、博士があまりしたがっていないように見えたからしなかった。

 博士が俺を採用したのはきっとそういう理由で、無駄な接触をしたがる人間を傍に置いておきたくなかったんだと推測した。前のめりな、情熱的な姿勢は時として暑苦しくなる。

 研修とは名ばかりの、小間使いの期間に入って四日目。午前三時過ぎに家に着いて、それから三時間半だけ眠った。七時に博士の研究室、23-A-G4。

 半透明のビルをエレベーターで昇っている間考えていた。研究室に入れてもらえない理由。

 客間にいて資料の整理や博士のスケジュールの管理などをしていると、研究室にこもっていた博士は時折客間に顔を見せてコーヒーを飲んでまた研究室に戻る。ストイックな、研究に対して真っ直ぐと言えばそうも思える。と、いうよりこの研究室の優遇や年中研究室にいる博士のために水回りの整備などもされているのは、博士のそんな研究に対する態度を上が見て判断したからだと思う。実際俺も、とても真面目でストイックな人なのだと思っていた。

 ではそうではないのか? いいや、それは違う。博士は真面目だし研究に熱心だ。でもそれは、結晶現象学に対する熱ではないように見えた。いつもどこか別の場所を見ている。

 俺の目を見ているようで、その青い目は違うところを捉えている。いつも他人に線を引いて中には入れないように拒絶している。その理由が知りたいが、知ったら最後、博士との関わりが切れるような、そんな予感がしていた。今にも千切れてしまいそうな吊り橋を目の前にした気持ち。

 エレベーターを降りて研究室の前に立つ。呼び出しのブザーを鳴らす前に、設置された無線の子機に向かって声をかけた。

「おはようございます。客間に入れてください」

 朝七時の「知の塔」は、静かだった。そして、返事も無く。

「サリーニ博士、博士。カナレスです。開けてください」

「…………ああ……」

 重い声。寝ていたのを起こしたかもしれない。少し申し訳なく思いながら、音を立てて開いたドアを抜けて客間に入ると、同時にサリーニ博士が研究室から出てきた。

「おはよう。用事は何だったか……」

「今日は会合があります、最上階で」

「ああ……。とりあえずシャワーを浴びてくる」

 研究室にふらりと戻る博士の背中を見ながら、俺は会合で発表する予定の資料を纏めはじめた。

 

 

「待たせたね。会は何時からだったか」

「十時です。今七時三十二分ですので、あと二時間二十八分あります」

「そうか……研究経過を発表しなきゃいけないな。資料は……」

「ここに。あと、デリバリーを頼んだのできちんと朝食を食べてください。昨日はあまり眠れていませんから」

「抜け目が無いな。分かったよ、あと何分?」

「三分です。来るまでに聞きたいことがあるのですが……」

「構わないよ。待った、コーヒーを」

「淹れます」

「……ありがとう」

 博士は自分のことは自分でするし、妙な謙遜や謙りを嫌う。コーヒーを淹れるくらいは、小間使いとしての範囲らしかった。ソファでくつろいだ表情の博士を見つつ、黒い液体をコップへ注いだ。

「さて、質問は何かな」

「昨日頂いた資料で……ここなんですが」

 食べ物には消費期限があり、非常食といえど定期的に交換する必要がある。貯蓄するには、消費期限は足を引っ張ることになるのだ。それを博士は、結晶化という手段で回避しようと考えた。結晶化された物体は基本的に空気に晒されないためそのままを保つ。宝化細菌には単純に水分と混じって結晶になるだけでなく、状態の維持の効果もあるのだ。だから結晶現象学は尊重される。……しかし。

「これからの課題についてです、強度を上げるにはどうすれば良いとお考えですか?」

 結晶化された物体の強度は確かに上がる。例えば結晶化された花は薄く澄んだガラスの膜で包んだようになるため、紙を乗せたり、軽く握る分にはまだ問題は無い。つまり結晶化したい物体の強度に由来する仕組みだ。砕いて言うなら、脆いガラスで包んだ、ような。それではまだ商業にまで展開するには足りない。人類の発展にはまだ至らないのだ。

 博士は身体をソファから離すと、口元に手を当てて考えた。きっと俺に分かるように言うために組み替えている。しばらく考えこんでから、博士は口を開いた。

「……そこがまだ手付かずというか。まだ実験が済んでいないが、宝化細菌の改良が必要だと思う。例えば……そうだな。宝化細菌が活性化する温度は何度か覚えているかな?」

「マイナス1℃です」

「そう。菌はそもそも温かいところを好くだろう。食中毒だとかも気温の高い時期に一番発生するのはそういう訳だ。でも宝化細菌は死滅の温度も他と違って低く、50℃程度だね。これじゃ、お湯がかかったり暑い地域では、簡単に溶けるようにして結晶は崩れてしまう」

「確かに、博士の実験をまとめた資料でも全て、結晶化する物体は予め冷やしてありました」

「そうだろう。このままじゃ氷と大して変わらない。凍らせたりするんじゃなく、常温でかつ強度がなくてはいけない。それには物体に変化を求めたり制限をつけるんじゃなく、宝化細菌を改良する必要がある。だがその方法がまだ見つからない」

「ですが、これでもかなり強度は上がりましたよね? 花の結晶化は難しいはずなのに一番最初に成功していらっしゃいます」

「それは運が良かっただけ、だがまあ……強度は上がっている。少しずつね」

 緩く笑ってコーヒーを飲む。どうしてそこまで結晶現象学に向き合うのか。

「……サリーニ博士、」

「?」

 口を開こうとしたときだった。ブザーが鳴って、頼んでいた朝食が届く。共通カードキーをリーダーにかざし、支払ってテーブルに置いた。博士がドアに向けてアルコール消毒液を噴射する。プレートの上を見るなり、眉尻を下げた。

「サンドイッチか……」

「ハムトマトサンドイッチ、オニオンスープ、シーザーサラダです。会合までは時間がありますからゆっくり、ちゃんと」

「全部食べて、って? ちゃんと食べるよ」

 手を洗いながら博士は笑ってみせた。

 

 

 最上階にあたる二十八階には直接エレベーターでは昇れない。二十七階まではドーナツ型のフロア中央のエレベーターで昇って、そこからはエスカレーターで上がる。何しろ、二十八階は全面会議室になっているからだ。

「今回の会合は何人来るんだ?」

「たしか七十名ほどかと」

「へえ……」

 興味があるのか無いのか。博士は二十八階に着いて席に座ると溜息を吐いた。手遊びは博士の不愉快の印。自分も博士の左隣の席に着いて周りを見ていると、続々と学者が集まった。中には見たことのある有名な研究者もいた。

「あれ、そう言えばカナ君も出席するのか」

「席が空いていれば研究助手でも会合には参加できると、ここに来た時に説明を受けました。少し楽しみで」

「そう……面白いことは特には無いけど」

 きっと、誰が座ったか分からないイスに座るのが不快なのだと思う。研究室に帰ったら消毒の時間が始まるに違いない。

 会議室には、ビルの構造に似たドーナツ型の白いテーブルが置かれている。中央には白い球体。プロジェクターがテーブル下に置いてあるから、それを使うんだろう。テーブル自体にも細工があり、タッチパネル式のディスプレイがはめ込まれていた。どれも大学には無い設備ばかり。周りを見回していると博士がくすりと笑った。

「楽しそうだね」

「はい、楽しいというより……いえ、楽しいです」

「素直なのは良いことだよ。発表は僕がやるから資料の方をお願いするよ。そろそろ始まるから」

 博士の言葉が合図だったかのように、静かに会議室が薄暗くなり、学者たちの知識の報告会は始まった。

 

 

 会合は思っていたよりも淡々と進んで、あっという間に終わってしまった。発表は一部の実験の結果やデータを報告し、これからの課題を少し話すとそこで終わった。もっとディベートのようなことが行われると勝手に思っていたばかりに拍子抜けにも感じる。

 会合が終わると学者たちは列を作って会議室から出た。俺と博士もエスカレーターを降りて、エレベーターへ乗ろうとしたときだった。不意に肩に手が置かれる。振り向くと笑顔とかち合った。

 薄紫のストレートなショートボブの髪と濃いワインレッドの目が異彩を放っている。

「やあ、発表聞いていたよ。サリーニくんところの助手の子だよね。ライネリオ・カナレスくん」

「あ、はい……そうですが」

 どうして名前を知っているのか、どうして博士じゃなくて俺に話しかけてきたのか。そんなことを考えていると、その人は空気が抜けるように笑う。

「不審者じゃないから。二十六階のアルコルネ・ロケ。インベスティガシオンに入った人間は俺が一々確認してるから知ってただけだよ。それに階も近いから……あ、エレベーターがもう一回ここまで上がるのに五分くらいかかるよ」

 サリーニ博士だってかなり美形で、毎日見ていたって毎日綺麗だと思うのにこのロケ博士と名乗った人も、博士とは種類は違うが、大きくて丸い目が特徴的だ。その止まらない言葉と目力に圧倒される。サリーニ博士の方を見れば、腕を組んで俺の作った資料を捲っていた。

「ライネリオ君……は長いから、リオ君で良いかな。あ、それともカナ君って?」

「いえ、カナレスでお願いします」

「そう。カナレスくんは今大学生だったよね。結晶現象学は昔から進んできたの?」

「そうです、というよりは鉱物が好きで」

 笑顔、ずっと笑顔。ロケ博士は終始笑顔だ。俺も愛想笑いは得意だけど、なんというか、ロケ博士のそれは仮面をつけているような、作られた笑顔。

「へえそうなんだ。俺はね、魔力工学を学んでるんだけど後続がいないんだよね。今って若者がそもそもこの界隈にはいないだろ。もちろんサリーニくんとか、俺とかみたいに二十代でここに身を置いてたりもするけど。サービス業って人気でしょ。研究って苦労ばかりではじめはあまり収入も少ないし研究費は馬鹿にならないし、まああとは、頭が良くないとできないからね。とにかくいないんだよ後続の若者が。だからカナレスくん、どうかな。お給料はずむよ」

 自然な流れで自分の目的を果たそうとするあたりが、賢い人なのだというのが分かる。でも。

「せっかくのお誘いですが、大学もありますし、サリーニ博士のお仕事もありますから」

「そうかあ、残念だな。……ねえ、サリーニくん」

 突然話しかけられた博士は、ゆっくりと目をこちらへ向ける。気怠げな目。

「何ですか」

「カナレスくん、もらっちゃだめかな? 研究助手と言っても小間使いだろ。他の宛がうから」

 それはあっけらかんとした口調だった。物を借りるようなニュアンス、表情も、曇りない笑顔だ。がっしりと肩を掴まれて引き寄せられる。博士は俺とロケ博士を交互に見た。

「ろ、ロケ博士……」

 思わずロケ博士を止めようとして、瞬間に聞こえたサリーニ博士の溜息に背筋が伸びる。

「カナ君がどこに行こうが僕に決定権はありませんが、カナ君は道具じゃないですし、本人が拒否しているのでどうとも言えませんね」

 博士らしい回答だ、と思った。ロケ博士は肩から手を離さない。

「はあ、なるほど。結構気に入っていたのか。なるほどね……ただの小間使いじゃないのか。うん、分かったよ。悪かったね。きみって傍から見てると、カナレスくんのこと避けて遠ざけてるように見えるからもらえるもんかと思ったよ」

「避けているように? 僕が?」

「ああ、だってイスの距離。五十五センチ毎に置かれているけど、きみはわざと更に十センチ離していたね。右隣にはいつも人が座らないから、少し離れても問題無いしね。今だってほら、四十五センチ」

「…………」

 博士が眉間に皺を寄せる。弁解しなくては、博士はそんな人間じゃないと。

「ロケ博士、その、サリーニ博士は……」

「会って一週間経たないもので、まだ掴みきれてないんです。人との距離の詰め方は、人それぞれでしょう。ロケ博士は距離を詰めすぎる部分があるようですがね」

 まるで喧嘩腰だ。こういう時、立場の弱い俺はどうするべきなのか。いざこざに発展する前に止めたいが、その手段を俺は持っていない。

 ロケ博士の表情を盗み見る。と、初対面の雰囲気と変わらない、あの仮面のような笑顔のまま。いっそ恐怖を駆り立てた。

「そうかもしれないな、サリーニくんの言うことには驚かされるよ」

 ベルの音が鳴って、エレベーターの扉が開く。乗り込むと、「あ、」とロケ博士は声を漏らした。

「暇な時にでも研究室に遊びにおいでよ。なに、捕って食ったりはしないから」

「ああ、はい。ぜひ」

「じゃ、きみたちの次の研究経過発表も楽しみにしているよ。ああ、それからね」

 ポーン、と二十六階へ到着したことを報せる音。

 ロケ博士は博士の肩を軽く叩くと、一歩踏み出して言った。

「隠し事は不幸の種、だよ。クレート・サリーニ博士」

「……!」

 目を細めて笑うロケ博士の指輪が深紫に光るのを、俺は見逃せなかった。

2018年9月