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 アルコルネ・ロケの存在は「知の塔」に入ったときに知っていた。何しろ、このビルの説明は全て彼が行っているから。

 人にやたらと触れたがるのは、彼が魔力を吸い取っているからだなどと噂されているのを聞いた。それを信じているわけではないが、あの濃い赤の目は人を不安にさせるものがある。気温が二十八℃を超えるような日でも黒いシャツとベストを絶対にやめないのも、ロケの根も葉もない噂を助長させていた。

 彼の人を少し見下したような態度は気に食わないし、カナレスに限らずどこかの研究所の助手やら大学院生やら、見境なく自分の研究室へ招こうとするところがいただけないところだった。後続になる人材が必要なのは分かるし、僕の元へカナレスが来たのだって後続になる人材の育成が目的だ。だから目をつけて誘うことには反対はしていない。問題はあの、値踏みをするような目と言い方だ。

「博士、サリーニ博士」

 研究室に帰ってアルコール消毒液を服やソファなど様々に吹き付けているとカナレスが声をかけた。その顔は少し曇りが見える。

「どうした、ロケ博士の所に行きたい?」

「な、そんなわけないじゃないですか。冗談はやめてください。そうではなくて、ロケ博士の言っていたことの意味が分からなくて聞きたかったんです」

「ああ、それか……」

 隠し事は不幸の種。

「カマかけただけだろう。研究者の中には、何かしら隠している人が多いから」

「何かしらって、何をですか?」

「さあ……それは知らない。ただ、その隠し事が何なのか分かれば大きな交渉の手段にはなるだろうがね」

「助手をもらうのに? そんな強硬手段をとるつもりなんですか、あの人」

 信じられないといった言い草に、たった三歳しか違わないカナレスがやけに幼く見えた。

「ただの憶測だよ。……カナ君は行かないの、彼の研究室に。給料はこっちより良いと思うが」

「だから、俺は給料だけでここにいるんじゃないんですよ博士」

 そうは言っても、いつ心変わりするか分からないのが人間だ。ロケのことだ、きっと諦めずにカナレスを甘い言葉で釣り上げるに違いない。あの目は、例えるなら蛙を見据える蛇の目。

「別に行ったって構わないよ。社会勉強とやらにはなるんじゃないか」

「社会勉強の為にも、ここに来たんですが」

「……ああ。そうだったね」

 適当に返して清潔になったソファに身を落とす。カナレスも同じく腰掛けると、鞄から発表に使った資料を取り出して僕に手渡した。

「この資料って研究助手は持ち帰り禁止でしたよね」

「そうだったか。助手をとったのは初めてだから知らなかった」

 受け取った資料を横に置こうとして、手から紙束が逃げる。ぱさ、と軽い音を立ててテーブルの下へ潜ってしまった。拾う気になれず屈みかけた身体を起こす。カナレスが代わりに拾い上げ、どうしてか心配そうな顔を僕に向けた。

「……博士、体調でも悪いんですか?」

「いや。体調はさほど悪くない」

「じゃあ、ロケ博士が言ってたことが――」

「そんなにロケ博士が気になるなら行ってくれば良いだろう」

 言ってしまってから、口元を自ら触れた。これじゃ、まるで。

「博士、」

「……今日、は。シャワーも浴びたいから引き取ってくれ。給料は一日分きちんと振り込まれるから」

「今給料は……いえ、分かりました。明日、また七時に伺います」

 聞き分けの良いカナレスは拾い上げた資料を手で叩くと、わざとテーブルではなくソファの上に置いた。本当に気が利く男だ、と曖昧に思う。立ち上がり小さな声で「失礼します」と言い客間から去って行った。

 静かになった客間で、何をする気にもなれずにソファに凭れたまま虚空を見つめる。どこを見るでもなく。

 肺の中の空気を入れ換え、ゆっくりと立ち上がって資料をダストボックスへ投げるようにして入れた。僕はどうしてしまった? 助手をとってから調子が狂っている。不思議と体調は良くなったが、問題なのは精神の方だった。

 誰も僕のパーソナルスペースには入れてはいけない。助手だろうと誰であろうと。そこから弱くなる、脆くなる。だから距離を取っているというのに。

 カナレスが言っていた通り、僕は彼の言葉の真意をずっと考えていた。「本当の」僕の研究の意図を、彼が知っているはずも知れるはずもない。だからカマをかけただけなのは分かっている。

「隠し事は不幸の種……」

 言われた言葉を反芻し、頭を振って研究室に戻った。冷えた空気に思考を明瞭化されていく。

 ロケの目的はカナレスの引き抜き、そしてこのコンクリートで覆われ秘匿化された僕の研究所の秘密を知ることだろう。このビルの管理を任されている彼ですら知ることができない、僕の研究所のことをカナレスを用いて探ろうとしている。そうして得た情報を使って、僕に宛てがわれる研究費を人員の少ない魔力工学へと流そうとしているのは見え透いたものだ。

 僕を焚き付けてカナレスとの距離を縮めさせ、秘密を知ったカナレスを金で釣って優位に立つ。本当にそれだけだろうか?

 シャワーを浴びようと白衣を脱ぐ。イスの背もたれに掛けてから、端末が震える音がした。

「? 誰だ……」

 通知は緑色に光っている。やり取りはメッセージでしかしないカナレスからの着信だった。タップし、応答する。

「もしもし」

「博士、博士お願いです一階に来てください。ロケ博士に追いかけられてます」

「は? 追いかけられてる?」

「今隠れてるんです。帰ろうとしたのを見つかってしまって」

 カナレスの声は珍しく焦ったような狼狽したものだった。

「とりあえず博士来てください」

「ちょっと、」

 言いかけて電話が切られる。今は他人と関わる気にはなれなかった。しかし頼み込まれてしまっては、このまま無視するわけにはいかない。

 大きく溜息を吐いて、脱いだばかりの白衣に袖を通した。

 

 

 一階までエレベーターで降りている間、先程顔を合わせたばかりのロケと再び顔を合わせるのが億劫で仕方が無かった。ポーン、とベルが鳴り、食堂にオリーブグリーンの髪を見つける。その向かいには、笑顔を貼り付けたあの男が座っていた。

 食堂に入ってテーブルへと足を向ける。

「……うちの助手に何の用です」

「あれ、サリーニくんも来たのか。今魔力工学について話をしてたんだけど」

 まあ座りなよ、と促されカナレスの隣に腰掛けた。食堂は特に嫌いな場所だというのに。

「きみも何か注文したら? 俺が奢るよ。ああ、カナレスくんも遠慮せず食べてね。ここの食堂ってミートパイが美味いんだよ。ピザもいつも焼きたてで、元々プロの料理人だったのをここに招いて食堂を構えただけあって腕前は確かだろ。サリーニくんは苦手な食べ物とかあるの? 俺は野菜が苦手で」

 相手のことを考えず懸河の弁を振るう様はさながら独裁者だ。ロケのスピーチが終わらない内に、カナレスが断りきれずに頼んだらしい料理が運ばれてくる。

「す、すみませんサリーニ博士」

「特に謝る必要は無いだろう」

 言いながら自分が苛立っていることに気が付いて滅入った。目の前に座る男がこちらを見る度に全身が「嫌悪」を叫ぶ。

「サリーニくんは何でカナレスくんを採用したのかな。第一印象?」

「……それを聞いて何をするんですか」

「いや? 興味があるから聞いただけだよ。カナレスくんだって知りたいだろ?」

 届いたピザを切り分けながら、ロケは聞いてくる。カナレスが僕を申し訳無さそうに伺った。立場が弱い人間はこういう時に不都合が出る。僕は頬杖をついた。

「大して特別な理由があるわけじゃないですよ。成績が良かった。僕の研究に興味があるようだったから採用したんです」

「へえ……本当にそれだけ? 四人はいただろ、成績だったら他の生徒でも良かったのに」

「どうしてそれを知ってるんです」

「ここに入ってくる人間は全員俺がチェックしてるって、今朝も言っただろ?」

 ロケはそう言いながら小さく切り分けたピザを大口を開けて食べていく。何と言い返そうか考えながら足を組み替えると、カナレスが口を挟んだ。

「俺は運が良かったんです。面談も順番的に最後だったし、印象に残りやすかったんですよ」

「なるほどね。それは一理あるかもしれない」

 ロケは軽く笑うとピザをカナレスに手渡した。受け取って食べるのを視界の端で見る。

「サリーニくんは今まで助手もろくに取らずに研究室からも滅多に出てこないし、どんな人なのかずっと気になってたんだよね。こうして話せて俺は嬉しいよ」

「そうですか」

 胃に違和感は感じる気がするが、しかし空腹かと問われればそうではないような気もした。メニューを軽く眺める。カナレスは僕の不機嫌に耐え兼ねたのか、余計な一言を呟いた。

「博士はどうして今まで助手を取らなかったんですか?」

「それ、俺も気になるよ。後続を宛てがう上の意向が無かったら、きっと今も取ってなかったんだろうし」

 特に好きな食べ物というものも無い僕はメニューからブラックコーヒーとクロワッサンを見つけ、カナレスに指で示して注文するよう促す。と、二人から質問を繰り返され、溜息を吐いて口を開いた。

「助手を取るにまで思考が至らなかっただけです。門を叩く者もいなかったから自分から募集をかけなかった。それだけですよ」

「へえ……きみがそれほど愚かだとは思えないけどね。でも、助手を取るのに募集する費用やら大抵を上が持ってくれるとなれば活用する他に手は無いし、タイミングとしては最高だったかもしれないな」

 ね、と笑うロケと目が合ってしまい、鳥肌が立つような思いがした。運ばれてきたコーヒーを啜ってその不快感を苦味で打ち消していく。

 カナレスはピザを飲み込むと、僕の方を見て言った。

「助手を取らずに今まで食事はどうしていたんですか?」

「どうしてって、普通にしていたが」

「栄養ドリンクは食事に含まれませんよ。スケジュールの管理等はどうしていたんですか?」

「自分でやる以外にどうする。助手を取るまでもないことだよ」

 言ってからロケが口を挟んだ。

「でもサリーニくん、会合には何回か遅れてきてたよね? 寝坊とかで」

「……昔のことでしょう」

「やっぱり朝は苦手なんですね」

 カナレスが笑う。この空気感は苦手だった。話題を変えようとしたところで、ロケが懐中時計を取り出して見る。

「俺、このあと研究助手面接があるんだよね。会計はしておくからゆっくり食べなよ。あ、それとカナレスくん」

 胸元から取り出した長方形の小さな紙をカナレスへ渡しながらロケは僕を一瞥し、視線をカナレスへ戻した。

「これから帰ろうとしたところだっただろ。面接が二時には終わるから、そのあと俺の研究所においで。いいよねサリーニくん?」

「…………」

 行かせたところで構わない。僕には関係無い。そう思ってもこの蛇のような目を持つ男の元へ行かせるのは癪だった。しかし今日はもう帰れと言った手前、引き留める理由も見つからない。

「……カナ君が行くと言うなら、好きにさせますよ」

 溜息を吐いてコーヒーを胃に落とす。カナレスがしばらく困却した様子で何も言えずにいると、ロケは痺れを切らしたように口を開いた。

「二時半まで待つから。まあ気が向いたら来て。何ならきみも一緒に来てもいいよ、サリーニくん」

 僕の肩に軽く二度触れると、伝票を持ちロケは去っていった。ぞわりと不快な感覚が半身に広がる。カナレスが謝罪の言葉を口にした。

「……申し訳無いです、呼びつけたのは間違いでした」

「ああそうだな。……これあげるよ。食欲を失くした」

「え、一口も食べてないじゃないですか。俺もう何品か食べて腹一杯ですし、博士は昨日も睡眠時間が足りてな」

「説教は要らない。彼の研究所に行くんだろう、このクロワッサンでも持って行くと良い」

 乗せられた皿をカナレスの方へ押しやる。カナレスは受け取らずにこちらへ押し戻しながら言った。

「要りませんよ、それに研究所には行きま……いえ、やっぱり行きます」

「そう。僕はしばらく実験室に籠るから明日も来なくて良い」

「ロケ博士の素性が知れないから恐ろしいんです。行ってどんな人か見てきます」

「はあ? 何を言ってる?」

 思わずカナレスに視線を移すと好奇心で目を輝かせている。他の研究者との余計な接触を避けたいからとわざわざ研究室も加工してもらったというのに、これでは全くの無駄だ。カナレスはクロワッサンを更に僕の方へと押しやる。

「これ、きちんと食べてください。パンの一つくらい召し上がれるでしょう」

「……本当に君は上からものを言う男だな」

 すみません、と言いつつ行くのはやめないようだ。カナレスは渡された紙を見つめて言う。

「サリーニ博士は一緒に行きませんよね。何か分かったらメッセージ差し上げるので連絡は取れるようにしていただけたら」

「どいつもこいつも勝手ばかりな……」

 頭を抱えて、まだ手元にあるクロワッサンに目をやる。これから実験室に行けばまた食事を忘れることは自分でも分かっていた。

 仕方なくポケットから消毒用ハンドジェルを取り出した。手のひらに少量出しよく伸ばしてクロワッサンを口に運ぶ。微かに甘味がするような、しかし乾いていて口内の水分が奪われていく。元々味などあってないようなものだ。

「博士が食べ終えるのを見届けたら、俺は共有スペースで大学の課題をします。二時までに何かあれば呼んでください」

 カップの中が空であることに気がついていたらしく、カナレスがもう一杯注文する。

「……ん、捕って食われないといいね」

「あの人なら本当に人間を捕って食ってそうな雰囲気があるので冗談に聞こえません」

 運ばれてきたコーヒーを縋るような気持ちで嚥下した。

 カナレスが言うように、ロケの真意は分からない。どうして笑顔を絶やさないのか、どうして助手を常に探しているのか、そして。

「研究所の見学はあまり行く機会が無いので緊張しますね」

「緊張するほどの所でもないだろう」

 ――どうしてあんなに恐ろしい目をしているのか。

2019年12月