「サリーニ博士は、外食はあまりされないですよね」
「まあ……そうだな。とは言えデリバリーは頼んでいるから、食べる場所の違いでしかないような気はするが」
カナレスの勧めで寄ったレストランは、広く小綺麗できちんとした内装のものだった。それほど強い空腹感は無かったが、カナレスが選んだマリナーラが運ばれてくると、自然と食欲に似たものが湧いてくる。
「博士にも食べてほしかったんです。これ、結構美味しいんですよ」
「へえ……」
カトラリーを手に取って食事を始める。カナレスは僕の感想を待っているようだった。見られるのは居心地の悪さもあったが、どうしてかカナレスの視線はそれほど不愉快ではない。
ガーリックの香りがするトマトソースのパスタ。油漬けのツナがごろごろと入っていて、腹を好かせた学生たちにはうってつけの料理だ、という印象を受けた。二、三本のパスタをフォークで巻き取り口へ運ぶ。
「ん……うん。まあ、美味しいよ」
「そうですか。よかったです」
顔色が悪く見えたのは気のせいかと思えるほど、カナレスはいつも通りの表情だ。そう、いつも通りの笑顔。
「俺は節約と健康のためにもあまり外食はしないようにしてるんですが、たまにここで食べることにしてるんです」
「学生のうちは学食が格安で利用できるからか?」
「はい、利用すればするほどお得かなと思って」
「……君のそういうところは嫌いじゃないよ。使えるものはなんだって使った方がいい」
僕の言葉にカナレスはまた笑っていた。
食事中に忙しなく会話をするのを嫌う僕の気質のことをカナレスはよく理解してくれているようで、それ以降は口を開くことなく目の前の食事に集中してくれていた。味わってゆっくりと交流を楽しみながら食事をすることが「普通」な中、僕のペースに合わせてくれることはありがたい。
カナレスには僕のことは気にせず食べるように言い、先ほど教授と交わした言葉の数々を思い出していた。
「――カナレスはどうですか、授業中は」
「それはもちろん、いつも集中して聞いているのが分かりますよ。普段から真面目な子でしたがね、サリーニ君のところへ行ってからは意欲が高く見えますな」
「実験にも積極的に協力してくれていて、助かってます」
「そうでしょうな。それで……」
教授が眼鏡をくいと上げ、紙束を取り出す。それが何の書類なのかは分かっていた。
「カナレス君の契約期間について……元々は今年いっぱいということだったが、本人が強く継続を希望していてね。サリーニ君、実際のところどう思う?」
ここへ来ればこの話になることは避けられないだろうと分かっていた。それでも来たのは、これを教授に相談したかったから。
「……助手を取ったことは、まあ、良かった面が強いのではないかと感じています。食事やスケジュール管理はどうしても一人では難しいので」
「サリーニ君のことだからどうせろくに食べてないんだろうとは思ったが、はは。まさに小間使いとしての本領を発揮しているわけだ」
「彼にはもっと研究助手らしいことをさせてやりたいとは……思ってるんですが。なかなか」
「そうだなあ。『知の塔』は雑務も多いですから、むしろ今まで一人でよくやってた方だと思いますよ」
今になってみれば、どうやってこれまで生活の管理をしていたのか分からない。まだ一か月も経っていないのに、だ。
「彼が強く希望しているなら、断る理由は今のところありませんが……まだ日も浅いですし、今判断したくはないと思っています。今後何があるとも分からないですから」
「それについては心配要らないんじゃないかな? カナレス君に限って、君にとんでもない無礼を働くとは思えないですよ」
はは、と教授が笑いとばす。僕も、それについては同意していた。
「教授はアルコルネ・ロケと会ったことがありますか?」
「ロケ君か。一度だけだが、ありますよ。彼が何か?」
「……カナレスを欲しがっているようなので、こちらに連絡が来ているんじゃないかと」
「ああ……実はあったんだよ。給料三倍から五倍まで出すから寄越してくれとね。カナレス君に聞いたら、一言『断ってください』とだけ言われたよ。こちらとしても、数少ない結晶現象学の後続をやすやすと明け渡すわけにもいかない」
やはり、あらゆる手段で手に入れようとしている。抜け目ない男だ。
「サリーニ君。どうか、カナレス君と……ゆくゆくは他にも助手をとって、複数の研究チームを作ってほしい。そして結晶現象学で世界をより良くしてほしい。老い先短い自分のような研究者の希望の星なんだよ」
「……期待には応えたいと思っています」
じくりと背中を刺されるような痛みが走った。激しい痛みではない。鈍痛が、やがて全身を包んでいく。
「カナレス君はああ見えて少し不器用なところがある。素直にものを言えないようだから、注意して見てやってくれると助かりますよ」
「後続の育成に関しては、外注したいくらいには苦手ですので……そこはあまり期待されたくありませんね」
「はは! まあ、そう言わずに――」
期待されている。
今まで細々と続けられてきた結晶現象学が、今、大学でも授業を行うようになり、その道に進みたいと考える人も少ないながらにいる。それがどれだけ価値のあることか、喜ばしいことか。それは当然、僕だって分かっている。
僕が結晶現象学と向き合う本当の理由を知ったら、一体どれだけの人が失望するだろうか。いや、失望なんてしないのかもしれない。呆れて物も言えないか、犯罪者だ何だと囃し立てるのだろう。
認めてほしいなどとは思わない。
僕が望むのは「永遠」の完成、そして功績を残して人類に貢献しダリラの元へ僕も行くことだ。
「……ごちそうさまでした」
ゆっくり、ちゃんと、全部食べ終わるとカナレスも同じくらいに食べ終えた。
「この後はコラール自然公園に行くんですよね?」
「ああ。フィールドワークとは言ったが、本当に散歩のつもりでいる。あまり気負わなくていいよ」
「分かりました。その後は戻って実験ですか? 俺も手伝えることがあったら」
会計を済ませてレストランを出ながら、カナレスが早口に言った。僕が黙っているから何かを察したのか、はっとして口を閉じると顔を逸らす。
「……すみません」
「謝ることじゃない。君は何を焦ってる」
「焦ってるわけじゃ、……いえ……そうですね、焦ってます」
歩きながら、横目でカナレスの顔を見た。やはり顔色が悪い。
「調子が悪いなら帰れと言ってる。どうして隠そうとする? 無理して散歩して悪化しては実験だってままならなくなる」
「……そうですよね」
すみません、とまたカナレスが言う。僕は立ち止まりため息を吐いた。隣のカナレスが萎縮したのを感じて、どうしていいか分からなくなる。
「……ひとつ。僕は今君に怒りを覚えているわけじゃない。体調の悪い助手の扱いを知らないから困惑している。ふたつ。君の体調が悪いと僕の仕事にも影響が出るから休んでくれないと困る。そして最後、僕も僕なりに君を心配している。結論として、僕は今から君を家に送って僕も充分な休養を取りたい。分かった? カナ君」
言えばカナレスはしばらく黙ったあと、僕を真っ直ぐに見据えた。
「体調が悪いわけではないということをまず、言っておきます。虚勢を張ってるわけでもないです」
腕を組んだ僕にカナレスは続ける。
「サリーニ博士。俺はそんなに聞き分けがいいわけじゃないですよ」
「何だ急に。それは分かるよ。助手のくせに上から物を言う男だ」
「もっと実験がしたいんです」
「僕のマネジメントには飽き飽きか。ごもっとも」
「俺は……」
カナレスが言いかけたところで、遠くからこちらを見ている集団が見えた。まずい、と思う頃にはもう遅い。近寄ってきた集団にカメラを向けられる。
「お久しぶりです、ドクター。研究のほどはいかがですか?」
「はあ……機密情報です。今はプライベートな時間ですのでお引き取りください」
「こちらの学生さんは一体?」
「ほら行くよ」
「え、あ、はい」
追いかけてくるのを適当にあしらいながら、「知の塔」に足が向かった。公園とは正反対の方向。カナレスも何か聞いてきていたが、僕はそれを無視した。
「知の塔」の中に入るのには許可が必要で、基本的に一般人は入れないことになっている。だから記者たちも、僕が「知の塔」に着く頃には諦めてどこかへ行った。エレベーターに乗り込み、23階のボタンを押したところでカナレスの姿が見当たらないことに気がつく。端末を取り出せばカナレスからメッセージが来ていた。『撒こうと思って別行動を取りました。このまま帰宅する予定ですが、大丈夫ですか?』
「……はあ……」
何も予定通りにいかない。頭を抱えて、メッセージには『それで大丈夫。ゆっくり休んで』と送った。ポーン、とエレベーターが停止したことを報せる。客間に白衣を脱ぎ捨てて、そのままソファに横になった。
もっとカナレスと話し合わなければならない。一体他の研究所で研究者は助手にどう接しているのか。同じ立場の人の意見が必要なのに、僕はそれを知る手段を持たない。
研究以外のことに気を揉まれて、研究が進まないから頭に霞がかかったように思考がぐるぐると同じところを回り続ける。研究を進めるのには研究以外の問題を限りなく減らす必要がある。これじゃ尻尾を追いかける犬のようだ。何も進展しない。堂々巡りできりが無い。
カナレスのおかげで体調は良くなってきている。僕の研究生活において、他者の協力はもはや必須事項となりつつあった。きっとカナレスの方も、自分がいなければならないという使命感を持っているだろう。そしてそれは恐らく間違ってはいない。
大きくため息を吐く。
端末を取り出してメッセージを送った。
『とりあえず三日休んでくれていい。給料は出るようにしておくから』
返事を待たずに端末を机に置き、身体を起こしてシャワーを浴びる。
そしてベッドに潜り、ゆっくりと目を瞑った。
研究室を覆うコンクリートのせいで朝も昼も夜も見当がつかない。客間から漏れる人工的な光から、かろうじて今が夜らしいことが分かった。
付けっぱなしになっていたライトを消し、研究室の奥へと進む。本来、仮眠室や倉庫、荷物置きとして使われる予定の部屋へと。
甲高い機械音の後、眠り続けたままの妹が目に入る。ダリラの半身を包んでいる結晶は時間経過により若干広がっていたが、しかしそれも触れれば簡単に壊れてしまった。
結晶現象を人類の進歩の為に利用すること。建前だとしても成果をあげなければこの「知の塔」に在籍し続けることは不可能だった。いつでも世界各国からこの「知の塔」での研究を望む学者が狙っている。だから人体への応用を進めるよりも、目の前に迫る雑務や仕事を片付けることで精一杯になっていた。
それに加えて、今は。
「……ダリラ」
話しかけても返事は無い。瞼はかたく閉じられたまま。僕は続けた。
「助手をとって、もう何日も経つ。あれだけ嫌だった助手をとったんだよ」
この部屋はいつも冷房をかけていた。自分を抱き締めるようにして腕を摩る。
「ダリラは……どう思う。僕はまだ正しくいられているかな」
床に座り込み、棺代わりのカプセルとそれを包む不完全な結晶に縋った。
「声が聞きたいと思うのは、さすがに贅沢だな。……写真をもっと撮っておけばよかった。たったの一枚しか持ってない」
そこでふと、カナレスの顔が浮かぶ。彼にも妹がいると言っていた。写真を撮っているだろうか。会えるうちにたくさん会っておいた方が良い、なんて在り来りな忠告でもしておこうか。その方がきっと僕の感傷だって少しは癒える。
「何年、何十年かかっても永遠を叶えてみせる。……牡丹だって、傷ひとつつけられないようにするよ。大丈夫、……絶対、叶える。絶対だ。永遠は、僕なら……結晶現象学なら、叶えられるはずなんだ」
目の前にいるのに、もういない。触れられるのに、触れられない。こんな悲しいことはないと、僕の中の何かが叫んで鼻の奥を痛ませる。
拳を握り締めて、立ち上がった。白衣を払い、部屋を出る前にもう一度カプセルの中の青白く照らされた妹に視線を投げる。
宝化細菌とはうまく言ったものだ。宝石のようにきらきらと微光を反射する結晶が、あまりに美しいから、厳重にロックをかけてそのまま扉に背中を預けた。
2023年4月
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