「ハイメ! アンヘル・ハイメ!」
左足から流れ出る液体は嫌悪感を抱かせるほどに生暖かい。少しでも遠くに逃げなければ。
「止まりなさい!」
誰が止まるかよ、と口の中で呟いた。固く噛み締めた歯列から息が漏れる。
まさか見つかるとは思っていなかった。どうする、どうしたら逃げられる。
思考を巡らせ、足を動かし、牽制の為に後ろへ向けて弾丸を放った。細い路地に入る。それからは、無我夢中で走った。警官の声が聞こえないことに気がついて、振り返るともう姿は見えなくなっていた。
ざり、と足元で砂が鳴る。立ち止まったその場所は、使われなくなった教会のようだった。周囲を確認するものの、民家なども見当たらない。どうやら袋小路に入ってしまったらしい。傾いた日の光で、教会全体が橙色に照らされている。
ハイメはここで立ち止まってからやっと、自分の左足に意識が向いた。ずくん、ずくんと痛みが波のように寄せては引いて、を繰り返す。血も止まっていない。
廃墟と化しているとはいえ、教会に入るのは気が引けた。だがもう他に行く宛も、体力も無い。ハイメは使い物にならない左足を引きずりながら、目の前の薄汚れた教会へ入った。
中はハイメが想像していたよりも汚く、損傷が激しいように見えた。ここで争いでもあったのではないかと思わせるほど、椅子やピアノオルガン、教会の一番大切な十字架までもが壊れ、放置されている。
座れて、雨風を数日間凌げるのなら上等だ。壊れていない長椅子を見つけ、そこに腰かけると、幾分か疲れが癒えていくように思えた。
これからどうするか。ハイメは頭を抱えた。怪我を治すまでにここが見つかってしまえば、今度はもう逃げられないだろう。ある程度走れるようになっても、これから遠くまで逃げるには色々と必要なものができてくる。
警察には捕まりたくない。
横になると長椅子は軋んで音を立てた。左足も、動くと同時に血が流れる。まだ外は明るい。割れたステンドグラスの隙間から差し込んでくる陽射しが眩しくて目を瞑った。このまま、目が覚めなければ――
「――あの」
「!」
不意に近くで声がして、驚いたハイメは椅子から落ちた。
「あらら、だいじょうぶですか?」
転んだ拍子に立った砂埃のせいで視界が悪く、頭を打ち付けたらしく脳みそをぐるぐると掻き回されているような感覚に陥った。
警察か? いや、それにしては。早く起き上がって、ナイフを突き立てろ。そう思うのに、身体が言うことを聞かない。
ハイメは目を開けることすらできないまま、喪神してしまった。
◇◇◇
「おきてください、もう夜も遅いのに」
甲高い声がする。
「ねえ、アナタどこの人なの?」
うるさい、耳障りだ。
「早くおきないと――」
「っ、……!」
勢いよく起き上がると目眩がした。声をかけてきたのが誰か、を確認するよりも早く胸元に忍ばせたナイフに手をやる。が、それは無駄な行為だった。
ぼやけた目のまま、ハイメは必死にポケットの中を探すも、他に持っていた拳銃やワイヤーなども見つからない。
「なにか探してるの?」
声の方向を向くと、月明かりの下に浮かんだのは子供だった。跪いて、妙にでかくて丸い目でこちらを見上げてくる。
「ポケットの中身なら、そこに」
笑顔で指し示された方には、レースのハンカチの上にハイメの所持していた凶器が並べられていた。
「……勝手にさわんじゃねえ」
「だって、寝苦しそうにしていたんだもの」
並べられた物を手に取り、何か細工がされていないか、弾は入っているか、確認してから元の場所へ仕舞った。全ては気絶した自分のせいだが、ピンク色の髪の少女にハイメは苛立っていた。
「足の具合はどうですか?」
言われて足の怪我を思い出す。立ち上がった時には痛みが無かった。
「お前には関係ねえだろ」
口を動かしながら自らの足を見やれば、服の上から包帯が巻かれていて、足の付け根には赤いリボンがきつく結ばれていた。僅かに痛みが薄れていることに気が付く。
少女はにこりと笑った。
「アナタが寝ている間に治療したの、具合どうですか?」
「関係ねえよ」
椅子には腰掛けず背を向けた。人がいたんじゃ休めない。通報されでもしたら迷惑だ。
歩き始めると、背後から甲高い声が付いてくる。
「どこへ行くの?」
「…………」
無言を貫く。後ろからはこつ、こつ、と軽い足音が追いかけてくる。
「まだ休んでた方が良いです」
「…………」
痛みを押し殺して足を早めた。同じように足音も付いてくる。
「そっちは行き止ま……」
「るせえな!」
ハイメは振り返って、衝動のまま派手な長い髪を掴んで引っ張り上げた。途端、踏み込んだ左足に激痛が走る。
「っ……!」
思わず緩めた手から、溶けるようにするりと髪が離れていく。傷は包帯で覆われていたが、血が滲んで来ているのが感覚で分かった。
「だから、まだ休んでいた方が良いと言ったのに」
引っ張られて崩れた髪型を気にしながら、少女が言った。ハイメは大きく舌打ちをして、頭を掻き毟る。
「大体、んな廃れた所に何でガキがいんだよ」
「だって、ここはワタシの家だもの」
こんな崩れかけの、廃墟と化した教会が「家」?
少女はスカートの汚れを払い、くるりとハイメに背を向けるとそのまま走り始める。
「おい」
声をかけるも反応は無く、壊れた十字架の方、教会の奥へと消えて行った。
「チッ……何だったんだよ」
雨風が凌げるなら、と思ったが、ハイメは気が変わって入口の方へつま先を向ける。夜中なら人目も少ない。今のうちに少しでも遠くへ逃げ、朝日が昇る前にどこかへ身を隠せば良い。
しかし、足を一歩踏み出す度に左足が激しく痛む。入口に辿りつくまでが、気の短いハイメには苛立つ程長く感じた。
この調子で、朝日が昇るまでに誰もいない廃墟や雨風を凌げるような場所を見つけられるのか?
「まだ動かない方が良いと言ってるのに」
「!」
振り返れば、先程奥へ消えて行った少女が何かを乗せたプレートを持って戻ってきていた。足音一つしなかったことをハイメはおぞましく感じたが、少女の持ってきた物を見て思考を放棄した。
「それ、」
「コーンポタージュはお嫌い?」
温かな湯気と空腹を思い出させる匂いにくらついた。
「お腹が空いていると、気が立ってしまうから」
うふふ、と少女は笑う。プレートには切られたパンとミルクもあった。
胃が収縮するような感覚に襲われる。午前中、依頼を片付けたら食べようと思っていたところに警察が押しかけてきて、結局は食べ損なってしまった。
「あ、せっかくだもの、テーブルで食べませんか?」
にこやかに笑った少女に問われる。奪ってでも食料を手にいれたい、とハイメは思った。
しかし、食べ物に毒が入っていないとも限らないし、薬が入っていないとも限らない。目の前の小さな子供に、どんな事情があってこの廃墟に住んでいるかはハイメには見当もつかなかったが、こんな場所に住んでいる人間が突然迷いこんだ怪しい男に、呑気に食事を出したりするか?
「食欲が無いのかしら……」
少女は独り言らしく呟いた。
ハイメは熟考の末、ポケットに手を差し込み、ナイフの柄を握りこむ。
「食べる。早く案内しろ」
「ああ、よかった!」
嬉しそうに笑うと、こちらです、と背を向けて少女が歩き始めた。もしも怪しい動きをすれば殺せば良いだけの話だ。怪我をしていたって関係無い、一発で仕留めれば良いだけ。
「あ、ゆっくり歩いてください」
ハイメがポケットの中でナイフを握りこんでいることを知らない少女は、教会の奥、唯一部屋らしくなっている場所へとハイメを招き入れた。
部屋らしくなっているとは言え、廃墟にしては、というレベルに過ぎない。中は成人した男が四人もいればそれ以上は人が入れないであろう狭さで、傷んだ木の椅子とテーブルが中心に置かれており、棚と簡素なキッチンのようなものがあるだけの、かなり粗末な部屋と言える。床には穴が空いていた。
「どうぞ座ってください。ポタージュもパンもおかわりがあるから、たくさん食べて」
「ん」
座ると同時に目の前にプレートを置かれる。少女も同じようなプレートを持ってくると、ハイメの向かいの席へと腰掛けて手を合わせた。そして小さくか細い声で何かを囁く。異しさを感じたハイメは元々歪んでいる眉を更に歪めた。
「おい、何だよ」
「祈りを捧げていたの」
「はっ、ご苦労なことだな」
鼻で笑ってパンに齧り付くハイメに、少女は笑いかける。
「おいしいですか?」
「……!」
問われ、瞬間口内に広がる暴力的な味にハイメは思わず咀嚼できなかったそれをプレートに吐き出した。
「お口に合わなかっ……」
少女が言い終わるよりも先にテーブルに力の限り拳を叩きつけた時、ハイメは自分の舌を、身体を疑った。
毒や薬ならもっと痛むか苦味があるはずだ。それも、一口で刺激を感知できるほどに塗り込んだのなら余計。しかしハイメの身体には異常が起こるどころか、口内に残るのは苦味ではなく。
「きゅ、急にどうし」
「てめえ……パンに何の細工をした」
「さいく? 特に……ああ! お砂糖をかけてあります」
にこりと少女は笑う。ハイメはミルクを一気に飲み干し、口元を袖で拭った。空のカップを粗暴に置く。
「砂糖の摂りすぎで頭が馬鹿になってんのか? かけすぎなんだよどう考えても」
「甘いのが苦手だったなんて、ワタシしらなくて」
ごめんなさい、と少女は言うと、汚れを布巾で拭き、プレートを持って眉尻を下げた。
「代わりに食べる物を」
持って行こうとする少女の腕を掴む。ハイメは舌打ちをした。
「こっちは腹減ってんだよ。甘えのでもなんでも良いから寄越せ」
ハイメの言葉を耳にすると、少女は嬉しそうに笑ってプレートを元の位置へと戻した。そしてミルクを注ぐ。
「たくさん食べて。おかわりがありますから」
「それはさっき聞いたっつの」
甘いものを普段口にしないハイメにとっては、そのパンはやはり身体が震えるほど甘かった。少女は両手で頬を支えるように肘を付いて、嬉しそうに微笑んでいる。
「おいしい?」
「美味くはねえ」
パンを胃に収め、ミルクを飲み下すと、ハイメは少女が手をつけようとしたスープと自分のものとを交換した。意図の見えない行動に、少女が大きな目を丸くする。
「あら、あら」
「……そっちのが多かったんだよ」
「そんなに飲みたいのなら、おかわりもあるのに」
少女は可笑しそうに笑っていたが、それはハイメの嘘だった。少女のスープになら毒の類は入っていないだろうとみて交換したのだ。元々ハイメのものだったポタージュは少女の前に置かれている。少女は何も気にすることなく、スプーンで掬って口へ運んだ。
「ん、おいしい」
その様子を見て、ハイメも一口スープを啜った。舌に広がるのはちょうど良い塩味とコーンの甘み。あたたかく、とろりとしたポタージュは撫でるように胃へと流れていく。次いで一口、もう一口、と飲んでいると、少女は手を止め、うふふ、と笑った。
「おいしい?」
「……ああ、美味えな」
「よかった、うふふ」
少女はしきりに笑っていた。ハイメの皿はあっという間に空になり、その時点で、ハイメの中で一つの事柄が決定された。
逃げられる体力が回復するまで、このガキを利用し尽くしてやる。
◇◇◇
食事が終わると、少女は皿を下げて温かいミルクをハイメに出した。はっきり言ってハイメはミルクが好きではなかったが、夜が更けていくにつれ隙間風が身体に滲みる。温かい飲み物は有り難かった。
「ところで、アナタのお名前は?」
「あ?」
別にどうでも良いだろ、と吐き捨てた。少女は一瞬口を噤んだが、口元に微笑を浮かべる。
「ワタシはモニカって言うの」
「あ、そうかよ」
大きな溜息を吐き、足を組もうとして鋭い痛みに顔を歪めた。すかさずモニカが椅子から立ち上がる。
「足、痛みますか?」
「そりゃ撃たれてんだから痛えだろが」
動くなと言われたにも関わらず歩き回ったせいか、包帯は赤く汚れていた。
「包帯を替えないと」
ぱ、とその場から離れ、モニカは棚の上に置いた救急箱を取ると、もう一度ハイメの足元へしゃがんで、それを開いた。箱の中には包帯をはじめとした色々な医療具が入っているのが見える。
モニカはハイメの汚れた包帯を外そうとして、思わず呟いた。
「撃たれたら、ふつう、歩けないものなのに」
「まあな」
慣れた手つきで、するすると解いていく。包帯の下に現れたのは布ではなく、抉れ、焼けた汚い自分の皮膚。
「…………」
自らの怪我をじっと見つめていたのが気になったらしく、モニカは首を傾げた。
「気持ち悪くならないの?」
「まあ、な」
同じ返答を繰り返すのは無関心の現れ。実際、ハイメは別のことで頭が占領されていた。
警察に捕まりたくない。
「消毒、した方が良いのかしら」
「んなもん意味ねえだろ」
天井を見上げると所々穴が空いている。ハイメは満腹からか多少の眠気を感じていた。が、それも束の間のこと。
「っ!?」
脳を突き破るような痛みと鼻に付く消毒液の刺激臭に、反射的に足を上げモニカを蹴り飛ばしそうになった。すんでのところで思いとどまり、代わりに床を踏み付ける。
「ってえな……何すんだてめえ!」
「だって血が付いているんだもの」
消毒液が傷口を焼いていくような痛みと共に染み込んでいく。歯を食いしばり拳を握った。
「がんばって、あっという間に終わりますから」
「っ……何が、がんばって、だよ……」
「リボンも結び直さなくちゃ」
モニカがリボンを解くと、左足へ血液が循環していくのが分かった。同時に、傷口の周辺でも生暖かい液体が溢れているのが分かる。失血死は避けたい。
「つよく縛ったから、痛かったでしょう」
モニカはズボンの上から跡が付いているだろう箇所をさする。モニカの手は、ハイメからすれば作りもののように見えた。白くて細い、陶器のような手。
「撃たれたところに比べりゃ感覚もねえ」
床にぽたりぽたりと血が滴っていくのを見て、何となく、少し笑えた。
「あらら、はやく結ばなくちゃ」
足を上げさせ、リボンを通す。素早く結ぶと、力の限り縛りあげた。
「…………」
モニカの手をハイメはゆるく払って、リボンを掴んだ。縛り上げると、足先に少し冷えたような感覚が走る。
「血が出ねえ代わりに壊死しそうだな」
自嘲気味な言葉に、モニカは怒るでも励ますでもなく、静かに笑いかける。
「軟膏を塗れば、すこしは痛みも減るかしら」
ガーゼに軟膏を取り、指に残った分は傷口周辺の炎症を起こした皮膚に撫でつけた。痺れるような痛み。傷を覆ったガーゼを軽く押さえて包帯を取り出すと、モニカは至極丁寧に、優しくそれを巻き付ける。その仕草は、まるで――
「はやく良くなりますように」
ハイメは今まで、自分の怪我は自分でどうにかしてきた。膿んでしまうこともあったが、何とか生き延びてきた。医師資格を持たない者に治療してもらうことも、あった。
しかし、こうして誰かに労りをもって介抱されたことは無かった。不思議な感覚だ。
ぱちん、と鋏が包帯を切る音で我に返った。
「はい、できましたよ」
残った包帯や消毒液を箱へ仕舞うと、立ち上がって棚の上へ戻す。その背中を見つめながら、ハイメは溜息を吐いた。
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