phase2 灯り

「……はっ、……は、」

 足音が後ろから迫ってくる。力の限り走るものの、身体が上手く動かない。まるで泥の中に沈められたかのような感覚だった。

 走っても走っても、足音は遠ざからないどころか数が増えていった。しかも、どんどん近づいてくる。

 捕まりたくない、絶対に捕まりたくない。後ろを振り向くと、数多の警察官が迫ってきていた。

「クソ……っ!」

 必死に足を動かす。不思議と痛みは無かったが、誰かにしがみつかれているかのように錯覚するほどに重かった。

「う……ク、ソが……っ」

 思うように走れない、フラストレーションが溜まっていく。振り向けばもう、すぐそこに警官の姿。

 捕まる、と思った瞬間。身体ががくん、と吸い込まれるようにして落ちる。

「っ! …………は、……っ」

 起き上がると浮遊感はもう消えていて、握り締めていた手に、背中に、不快なまでに汗をかいている。動悸が治まるのにかなり時間がかかった。

「夢かよ……」

 頭を掻き毟り、ベッドから出る。と、ずきん、と左足に痛みが走った。ハイメはその時まで忘れていた、怪我のことや状況を思い出した。

 モニカに包帯を替えてもらった後、ハイメはベッドルームに案内された。と言っても、ベッドは壊れかけのものが一つだけ。家を持たない人の為に元々教会で用意されていた部屋のようだった。寝心地は言わずもがなだ。

 差し込む月光を見るに、眠り始めてからそう時間は経っていないように思えた。窓を開くと、涼しい風が髪を撫でる。汗が引いていくようだった。

 夢で見た内容が現実になるような。そんな気がしてならなかった。

 

 ◇◇◇

 

 床に就いたハイメが次に目を覚ました時、日は傾き始めていた。顔に当たる西日が眩しい。

 いつの間にか開け放っていたはずの窓は閉められ、乱雑に脱ぎ捨てていた上着は畳まれて椅子の上に置かれている。

 寝過ぎた。

 頭重感に顔を顰めた。左足も変わらず痛んでいたが、身体の気怠さは昨晩の夢を思い出されて、ハイメには辛いものだった。

 ゆらりと立ち上がり、狭い部屋を出ようとしてドアノブを握ったところで、扉の向こうからどこかで聞いたことのあるようなメロディーを耳にした。

 建付けが悪い扉を開くと、ピンク色の髪の少女がオルガンを弾いているのが目に入った。壊れかけのオルガンは正しい鍵盤を叩いても、時々歪んだ音を叫びあげる。

 モニカはハイメが起きてきたことに気が付くと、顔を上げて演奏を中断した。

「あら、おきてたんですね」

「ん」

「昨日のスープがまだ……」

 言いながらモニカは立ち上がってハイメの元へ駆け寄る。

「さっきの」

「?」

 ハイメにはその曲が聞き覚えのあるものだった。しかし曲名も、どこで聞いた曲なのかも思い出せない。

「何ですか?」

「いや、いい」

 背を向けて、昨晩食事を振る舞われた部屋へ足を向けた。モニカはハイメの横へ並ぶと、ハイメの傷痕だらけの手を取って引きはじめる。

「歩きにくいでしょう?」

「チッ……要らねえんだよそういうの」

 ハイメは振り払ったその手をポケットに突っ込もうとしたものの、モニカにそれを阻まれた。

「また傷口が広がったら困るもの」

 そう言われればハイメも特に反抗する理由が無くなってしまう。「手を繋ぐ」というよりも、「手を持つ」という表現が正しいようにも思えた。

 部屋に辿り着くとモニカは甲斐甲斐しく椅子へ座らせ、昨晩そうしたように、プレートに乗せたパンとスープ、サラダをハイメの目の前へと出した。

「…………」

 ハイメはパンを凝視した。昨晩は夜遅くで、月明かりだけでは砂糖がかけられていることが分からなかったが、細かく砕いたガラスの破片のようなものが、一枚ずつにカットされたパンにまぶされている。

「おい」

「どうしました?」

「また砂糖かけたのか」

「ああ!」

 モニカはハイメにミルクを渡しながら笑みを浮かべた。

「お砂糖をかけて焼いているから、あと二食分はお砂糖がけで」

「……ざけんなよ……」

「そんなに嫌?」

 不思議そうにモニカは首を傾げた。

 

 ◇◇◇

 

「あー……食った」

 何度かおかわりすると、作ってあったポタージュは底をついてしまった。

「お腹が膨れたのならよかった」

 愉しげに笑ったモニカは、テーブルを拭きながら言った。片付けを終えると、モニカはハイメの足元に跪く。

「足の具合は?」

「さあ」

 体感、痛みは和らいでいるようにも感じたが、モニカが触れるとやはりびりびりと刺激が伝わった。眉が動いたのをモニカは見逃さなかったらしく、手を退けると救急箱を取って包帯を替える。

 その様子を見ていて、思わずハイメは口を開いた。

「何でこんなとこに住んでんだよ」

 モニカは目を丸くしてハイメを見上げる。

「こっち見んな。聞いちゃ悪いかよ」

 気まずさに眉を顰めるとモニカはにこりと笑んだ。

「アナタはどうしてここに来たの?」

「それ……は」

 今度はハイメが目を丸くする番だった。見上げてくるモニカの瞳の中心に捕らえられ、微かに異しさを感じてハイメは生唾を飲み込む。そして、は、と我に返ると顔を背けて溜息を吐いた。

「……お前には関係ねえって何度も言ってんだろ」

 ハイメがそう言ったところで、モニカが救急箱を閉じた。

「はい、終わり」

「ん」

「昨日より少しよくなったみたい」

「そりゃどうも」

 内心、ハイメは焦燥を感じていた。長くここにいてはいけない、と。

 

 ◇◇◇

 

 すっかり日は沈み、ぼろ教会の全体が薄闇に包まれた頃、モニカは一人で食事を摂った。その間ハイメは暇を持て余し、読みもしない破れた聖書のページを捲っている。

「ご馳走様でした」

 細く、高い声でモニカは囁いた。そしてすぐさま片付けると、一度部屋を出てどこかへ行き、何かを持って戻るとすぐ、

「シャワーを浴びてきます。アナタは入らないの?」

 と問いかけた。ハイメはその時はじめて、自分がしばらくシャワーを浴びていないことに気が付いた。しかし身体の清潔なんてものは今のハイメにとって重要さを持っていない。

「浴びてえなら勝手に浴びてこいよ」

「そうですか」

 包帯を替えたばかりだということもハイメがそう答えた要因ではあったが、それを口に出すことは無かった。

 モニカが部屋を出ていくとすぐ、ハイメは聖書をテーブルへ投げ、立ち上がると部屋の中をぐるりと見回した。

「…………」

 突然現れ、しかもぼろぼろになっている男を甲斐甲斐しく世話をする少女。どうしてそこまでするのか、ハイメはずっと疑問に感じていた。もしかするとこれは警察の罠なんじゃないか、とすら感じられる。その可能性に気付いた時から、ハイメはずっと気を立てていた。

 部屋の中は何度見てもやはり狭く、見回しても隠し扉も無ければ人が隠れられるような場所は無い。テーブルの裏や椅子の下、不自由な左足を庇いながら部屋全体を見て回ったが、しかし盗聴器の類も見つからなかった。

 もし、仮にモニカが警察の犬だったなら。シャワーを浴びると言って出て行ったのは嘘ではないか?

「……!」

 ハイメは急いで部屋を出た。なるべく気付かれること無く背後を取りたかったが、教会には視界を阻むものが少ない。その上、場所を教えてもらわなかったが為にシャワールームがどこにあるかも分からなかった。思わず溜息が零れる。

 足元は崩れた何かの破片や砂で音が鳴りやすくなっていた。殺気を気取られる前に殺すのが基本、しかしこんな場所では足音を消すのは至難の技だ。

 モニカに気付かれる前にここを抜け出し遠くへ逃げるか、それともモニカを殺してここでの潜伏を続けるか――。

「あの、」

「!」

 人は驚くと声が出なくなるものだ。驚倒したハイメが肩を震わせ、振り返るとそこには、濡れそぼった髪を拭きながら立つモニカの姿があった。

「お、お前いつからそこに……」

「ついさっき」

 策に気付かれた。怪しまれたら終わりだ。咄嗟にナイフを手元に準備したハイメだったが、モニカは柔らかく笑む。

「やっぱりシャワー浴びたくなったんですか?」

「……あ、あ。ま、そんなとこだ。お前が遅いから待ちくたびれてんだよ」

「あら、ごめんなさい」

 口元を手で隠し笑う。モニカはハイメの手を取って言った。

「傷に染みないといいけれど」

 

 辻褄合わせの為に吐いた嘘のせいでハイメは入浴を余儀なくされ、シャワーを終えて出ると、モニカによって髪を拭かれ二度目の包帯交換を終えた。

「どっから包帯湧き出てんだよ」

「……? 包帯は湧き出ませんよ?」

「それくらい知ってんだよ馬鹿にしてんのか」

 ハイメの言葉が可笑しかったのか、しばらくモニカは声を出して笑っていた。

 

 ◇◇◇

 

 夕方頃まで眠っていたからか、ハイメは時計の針が頂点を越えても眠気を感じなかった。しかし身体を休めるようにとのモニカの勧めでベッドに潜る。決して柔らかくはないものの、確かに少し安らげるような気がした。

 自分が嘘を吐いた理由が、ハイメには分からない。

 腕で顔を覆った。モニカの顔が瞼の裏に浮かぶ。

「…………」

 少なくとも歩けるまではここにいよう、妙な動きをしたら殺せば良いだけ、だから。

「……クソが」

 その言葉が誰に向けたものなのか、それは神にも分からない。