目覚めた時には動悸や手の震えは治まっていた。部屋に射し込む陽射しは柔らかく、まるで昨夜の出来事は嘘のようだった。
椅子の上に乱雑に置いた上着は綺麗に畳まれることなくそのまま放置されて、日光に当たっていた部分が温かい。ハイメは上着に袖を通し、部屋を出た。
今日もオルガンの音は聞こえない。
「…………」
昨日のことを思い出すとハイメは少し顔を合わせるのは気が進まなかったが、パンでも何でも完食してやればまた喜ぶだろう、とドアノブを握る。
意を決して部屋に入った。が、またもやモニカの姿は無い。
「んだよ……」
再び拍子抜けしたハイメは大きく溜息を吐いた。テーブルにはプレートが置かれている。
しかしその上に乗せられていたのは、あの砂糖がけのパンではなく、ベーコンと目玉焼きの乗せられたトーストが二枚、たったそれだけだった。
食べ終えたハイメはプレートを下げると、部屋を出て教会内を歩き回っていた。太陽が高く昇っている間に教会の中を歩くのは、ほとんど初めてのことだ。
モニカよりも早く眠り、遅く起きるハイメはモニカがどこで寝ているのか知らない。食事の横には、昨日あったようなメモ書きが置かれていなかった。ハイメが歩き回っているのは、モニカを起こす為。
撃たれた左足は、歩くだけならば比較的不自由なくできるようになっていた。手で壁を触りながら、ガラス片や砂の飛び散る床を擦るように歩く。ハイメはそうして歩きながら、モニカがもしも通報しに行っていたら、と考えて眉を引き攣らせていた。
捕まりたくない。
殺すことに躊躇いが無くなっていた。拳銃で、ナイフで、紐で、あらゆる手段でそれをした。皮膚を突き破る感覚ももう、手に馴染んでしまった。
だから、躊躇うことなんか一つも無いはずなのに。
「チッ……どこにいんだよ」
不貞腐れ、半ば八つ当たりのように壁に拳を叩きつける。と、ぐらりと身体が傾いた。
「っ!」
為す術もなく身体が床に倒れた。砂塵が舞い、それが収まるとゆっくりと立ち上がる。
そこは狭い、物置部屋のような場所だった。
「なんだここ……」
振り返るもドアは無い。ハイメは、なるほど、と壁を押した。ぎぎぎ、と音を立てて回転する。つまりここは……
「やっぱり隠し部屋になってやがったか」
窓が無く、付けっぱなしになっているランプのおかげで辛うじて周囲が見えた。薄暗い部屋だ。一つの小さなベッドと、クローゼットが置いてあるように見える。
ハイメが一歩進むと、何かを踏みつけた感触が足に伝わった。足元には、顔のひしゃげたウサギのぬいぐるみ。
「げ……」
拾い上げ軽く叩くも、顔が汚れてしまった。手に持ったまま部屋を進むと、床には似たようなぬいぐるみが大量に落ちていた。積み木や絵本もある。
「おい、いつまで寝てんだよ」
ぬいぐるみを踏まないようにベッドへ進む。
「返事しろよ。おい」
返答は無い。
「おい、モニカ!」
シーツを掴んで捲った。
「!」
モニカはいなかった。代わりにいたのは、大小様々なぬいぐるみだけ。
「紛らわしいんだよ……」
ハイメは掴んだシーツを丸めて投げた。よく見てみると、ベッドもクローゼットもどこか新品のように見える。塗装の剥がれ落ちた壁と家具とが不釣り合いだ。ハイメは躊躇することなく、クローゼットを開け放った。
そこにあったのは、全く同じ色、柄の服。確かに、今思えばモニカはずっと同じ服を着ていた。日々変わる他人の服装にまで気をかけていられるほど、ハイメは余裕のある状態ではない。
何かモニカに関する情報があるはずだ、と服を掻き分けた。瞬間、手に走った痛みで思わず声が漏れる。そっと一枚ずつずらしていくと、服と服の間に両刃のナイフが吊り下げられていた。舌打ちをして手を確かめる。幸い、手に嵌めていたグローブのおかげで傷は浅かった。服もナイフも全て取り去ってベッドの上に並べる。と、服に隠れていたのはナイフだけではなかった。
「……嘘吐きはどっちだよ」
ハンドガンが二丁とナイフ、注射器や爆弾らしい物もある。全て新品ではなく使用された形跡があった。弾も入っている。
隠し部屋になっているこの部屋で、モニカはどうしてクローゼットにこんな物を隠しているのか? そんなの、答えは明白だ。でも、いや、そんなはず。信じられない、信じたくない。
「俺と同じ……」
明け方に見た夢がフラッシュバックする。頭を振った。違う、そんなはずないだろ。でも、そうだったら。
ハイメの頭の中で、可能性とそれを否定する言葉がぐるぐると行き場を失っていた。頭を抱えてしゃがみ込む。
俺と同じ、殺しを仕事にしている人間だったら。
そう思えば今までに感じた違和感や疑問も辻褄が合ってしまう。ハイメの傷を見ても医者や警察を呼ばなかったこと、凶器の数々を見ても怯えなかったこと、こんな場所で一人で暮らしていること。そして、足音も立てずに忍び寄ってきたこと。全てに合点がいった。
正確な年齢なんかハイメには見ても分からなかったが、少なくとも十五より下であるだろうというのは分かった。そんな小さな子供が、殺しを? できる訳がないと言い切れないのは。
「――ほら、一発なら苦しまないだろ?」
「うっ……うう、っ」
涙がぼろぼろと零れていくのを止められない。手に伝わる生暖かい感触は、洗っても洗っても取れない、呪いのようなものだった。
「ちょっとずつ練習していこうな」
それから、父と名乗る男にさせられる「練習」は、俺が泣かなくなるまで、能動的にやるようになるまで、何年も続いた。
「練習」が終わったのは、雨とも雪ともとれない天気の、とても寒い日だった。
「お前は本当に出来の良い子だ」
「…………」
「今のお前なら二人くらい簡単に殺れる」
にた、と嫌な笑い方をする男だった。俺の頭にぽんと手を乗せる。
「パパは嬉し――」
「……俺の父さん母さんを殺したのは」
振り払うと同時に顎下に銃口を宛がった。
「お前だろ、クソジジイ」
「ハハ。どこから聞いた?」
両手を上げた目の前の男は飄々と喋る。
「子供が欲しかったんだよ、寂しくて」
「……言いたい事はそれだけかよ」
「お前、俺がいなくなって、困るだろう」
銃を強く押し付けてもなお、男は喋るのを止めなかった。
「愛してるよアンヘル、お前だけが家族なんだ」
肩を掴もうとするのを制して、ゆっくりと弾をリロードする。
「本当に殺る気か?」
「…………」
引き金に指を添える。ほんの少し人差し指に力を入れるだけだ。そう、思うのに、指が動かない。
「……ハハ! できないだろ、お前には!」
嘲笑って簡単に手首を掴むと、男は自ら銃口をこめかみに当てた。
「撃ってごらん、アンヘル」
男は気味悪く笑う。
「……狂ってんだろッ! 父さんも母さんも殺しておいて俺を攫って! さんざん殺しの仕事をさせて、今度は自分を殺せって、……何がしたいんだよ、俺、もう」
胸ぐらを掴んで握りしめる。
悲しいわけじゃなかった。親の顔なんか覚えちゃいないし、この男の事もずっと畏れていた。
「何を泣いてるんだ。ほら撃て」
「……ふつうの、親子になりた、かった」
「ハハハ。最後にパパって呼んでごらん」
「…………」
動いた拍子にカタンと音を立てる拳銃。俺は俯く。
ばん。
乾いた銃声が聞こえた気がして、ハイメは飛び起きた。いつの間にか眠っていたらしい。立ち上がりモニカの部屋を飛び出て、寝室へと移動した。
銃声はもう聞こえなくなっている、夢か現かは定かではない。寝室の窓から外を見るも、警官はおろか誰もいなかった。
「……夢か」
胸を撫で下ろしたところで、ふとモニカのことが過ぎる。空は紫色と青の絵の具を混ぜたようになっていた。帰って来ているなら部屋にいたことを知ってるはずで、ということはまだモニカは外にいる。どこにいて何をしてるか分からないことが、ハイメに不安をもたらした。
モニカが「俺と同じ」なら、まだ戻らないのは何か危険な目に遭っているからに違いない。
「…………」
ハイメの腹から情けない音が響く。空腹はとっくに自覚していたが、モニカを待つとハイメは決めていた。
「ったく遅えな……」
わざと口に出して言う。不安を意識から追い出したかった。
ハイメの予想が当たっているのか、それともただの杞憂なのか。モニカの口から本当のことを聞きたかった。納得がいくまで話したかった。もちろん、自分自身のことも。
ずっとこの仕事を辞めたいと思っていたし、「普通」に生きられるならそうしたいとも思っている。しかし今までの生き方がそうはさせてくれない。これ以外の生き方を、ハイメは知らないからだ。
警察に顔を見られてしまった今ではもう、辞めて真っ当な仕事に就くことも、誰かを師と仰いで教えを乞うこともできない。逃げ切るか、捕まるか、死ぬか。その三択だ。
あの夢を見てからずっと、考えている。これから先どうするのか。
できるなら――
「アンヘル・ハイメ、出てこい! いるのは分かっている!」
「!?」
警官の声と足音が響いた。途端に煩く心臓が鳴り始める。ハイメの瞳には焦燥の色が滲んでいた。
息を殺し、ポケットの中のハンドガンを取り出した。足音は近づく。しかも、一人じゃない。
悠長にこんな所に留まっていないで逃げていればよかったか?
後悔も後の祭り。この部屋に入って来られたら勝ち目が無い。出るなら、今。
「! いたぞ!」
扉を蹴り開けると目に入ったのは十人程度の警官。
銃を構えた警官をまず一人。振り返るのが遅かった奴をまた一人。壊れかけの椅子を背中にして、隠れながら頭を狙って撃つ。左足は少し痛んだが、問題無い程度だ。
クローゼットから出てきた手榴弾を、持ってきたのは正解だった。ハイメはピンを口で引き抜き、武装した警官の群れに向けて投げた。爆風で砂とガラスが舞う。当たっていればひとたまりもないだろう。立ち上がって弾丸を放ちながら、入口へと一歩踏み出した。途端、ずきん、と傷口が痛む。刹那の油断。
ハイメのその足に、稲妻が走る。見れば赤い花弁がぱっと舞った。
撃たれたのだ、足を。
崩れ、傾く身体にもう一発、殺意と正義の塊が食い込んだ。倒れるハイメの身体を、支える者は誰もいない。
手から拳銃が離れた。だめだ、まだ死ねない、捕まりたくない。立て、逃げろ、早く逃げろ! しかし身体は言うことを聞かなかった。数発の銃声が耳に届く。それが、ハイメの最後の記憶になった。
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