錆び付き歪んだ窓は開かなくなり、閉め切られた部屋に自然な光などとっくの昔から入らなくなっていた。唯一の人工的な光すらも失われてしまい、今が真昼間でなければ行動するのが難しかっただろう。蝋燭に火をつけキャンドルランタンへ、それを持って彼女は黒い台に厚底靴の足で乗った。
「……う、お前、」
「何かしら?」
彼女の足元で苦しげな呻きが漏れる。黒い台は無機物ではなく、黒い服に身を包んだ男だった。
「思ったより、重い……っ」
「うるさいわね。少しくらい我慢なさい」
「早くしてくれよ、お前のその凶器的な靴が背骨に刺さってる、んだよ」
「全く、文句だけはよく吐くんだから」
元々凛々しく釣り上がっている眉を顰め、彼女は天井に手をついた。寿命の切れてしまった電球を、嫌な金属音を立てながら外す。テーブルに置いておいた新しい相棒を手に取ると、再び金属音を立てながら電球をつけようとした。
「ん、入らないわね……」
「おいよく見ろ、そして早く降りてくれ」
「ああもう! 気が散るでしょ、そんなに言うなら貴方がやればいいじゃない。その無駄に大きな身体を使って」
「馬鹿っ、そんな汚いところ触れるかよ」
「床に這いつくばって言うこと?」
手元を照らしながら四苦八苦していると、ドンドン、と低い音が響いた。二人が音の方向を見た瞬間、勢い良く扉が開き、キャンドルランタンを持ったまま彼女はバランスを崩して尻餅をついた。そして音の正体が大きな声で言う。
「探偵さんいますかっ!」
●○●○●○
無事に部屋が明るくなったあと、散らかった部屋に三人が座れるスペースができた。 というのも、引越したばかりなのに片付けもろくに終わらないまま、むやみに家具や服などを買ったせいである。
訪ねてきたのは小さな少女、名はシェルシェと言った。淡い栗色のふわふわとした髪は下ろされており、大きな瞳が印象的だった。
「――じゃあ、私も自己紹介を。ドルチェ・アメールよ、ここの主人と言っても過言ではないわ。それで、この黒い大男がシャルフ」
「シャルフ・ブラントだ。あと俺は大男じゃない」
二人が会釈をすると、シェルシェは自慢気に笑った。
「あたし、あなたたちのこと知ってるわよ! ブラン・ノワール、ようしたんれいの白き美少女とびもくしゅうれいの黒き大男って!」
「だから俺は大」
「なるほどね、次は貴女の話を聞かせて。何をしに来たのかしら?」
言葉を遮られ、仕方なく黙ってシャルフは新品のティーカップにキャンディティーを淹れ、シェルシェとドルチェの分にはミルクとシュガーを入れてそっと置いた。ドルチェは横目でシャルフを見て少し眉を上げる。
「あのね、探偵さんにあたしの家族を探してほしいの」
「家族?」
突然訪ねてきた少女が家族を探してほしいだなんて、物騒なことではあるがとても面白そうだ。ドルチェは少し前のめりになった。シェルシェは真剣な表情で訴える。
「あたしの大事な家族なの。フレールっていうの」
「フレール……」
そばに置いた手帳を開きそれを書いてから、顔を上げて尋ねた。
「貴女のパパやママは今どこに?」
「いないの。公園で遊んでたら、フレールがいきなりどっか行っちゃって……」
シャルフが息を飲んだ。こんな場所にこんな小さな子供が一人で来る時点で察するべきだった。ドルチェは努めて優しく尋ねた。
「……分かったわ。フレールの犬種は?」
「けんしゅ?」
シェルシェは大きな瞳を丸くして首を傾げた。シャルフまでもが首を傾げている。
「フレールは犬なのでしょう? 違うの?」
「え」
声を漏らしたのはシェルシェではなくシャルフだ。ドルチェが呆れたように言った。
「話を聞いていれば分かるでしょう」
「……えっと、けんしゅ? ていうのは分からないけど、フレールの見た目なら描けるよ!」
「上出来。シャルフ、紙とペンを渡して」
「はいはい」
シェルシェは渡された紙を受け取るとペンを握り、止まることなく描いていく。静かにそれを見守っていると、出来上がった絵を二人に向けて掲げた。
「はい! フレール!」
掲げられた絵はぐちゃぐちゃで、限りなく綿埃に近い見た目をしていた。難しい顔をしていたドルチェを見てシェルシェが困ったように眉を下げる。
「……だめ?」
「んん、駄目じゃないわ、大丈夫。つまり犬ってことね」
「今諦めたな完全に」
シャルフの言葉を聞いていなかったかのようなふりをしつつ、ドルチェはシャルフの大きな足を踏みつけた。
「いっ」
「さて、依頼内容の確認を。フレールを探せば良いのね?」
「うん!」
ドルチェは手帳を捲りながら言った。
「報酬は?」
「ほうしゅう……? あ、ごほうびのこと?」
シェルシェにはまだ少し金銭のことは難しいようだった。シャルフが見兼ねて口を挟む。
「報酬のことは別に気にしなくて良い。フレールを探しに行こう」
「え……いいの? よくわかんないけど、ありがとうっ!」
ぴょん、と飛び跳ねてソファから降りたシェルシェに扉の外で待つように言って、二人は外へ行く、つまり調査をするために支度をしていた。手を動かしながら、ドルチェが棘を吐く。
「……勝手に依頼を引き受けないでちょうだい。同情でボランティアをするなんて、探偵の仕事一発目から失敗同然よ。今回は私も同行するけれど、次から貴方が引き受けた依頼は貴方にやってもらうわ」
「分かってるよ。ったくそんなに怒るなよ。可哀想だってお前も思ったんだろ? なら良いじゃないか。両親のいない小さな子供のたった一人の家族は犬⋯⋯ああ、涙が出るな」
大袈裟にそう言って目元を拭う素振りをしてみせたシャルフの頬をドルチェが抓る。
「そういう演技はいらないの。ほら、さっさと見つけて片付けを再開しましょう」
「分かったよ、どうせすぐ見つかるさ犬の一匹や二匹くらい」
ドルチェの後に続いて扉に向かいながらシャルフがぼやくと、扉を開けたドルチェの口から大きなため息が漏れた。
「すぐに見つかるのよね? 犬の一匹や二匹くらい」
シェルシェが待っているはずの場所に、その姿は無かった。続いてシャルフが苦虫を潰したような顔になる。
「…………はあ、ツイてないな」
犬一匹と少女一人を探すには、日は十分すぎるほどに高く昇っている。二人の調査はまだ始まっていない。
●○●○●○
手始めに聞き込みをすることにして、二人は近くにいた人に見境無く声をかけた。しかし写真を持っているわけでも詳しい情報も聞けたわけでもないままにいなくなってしまったので、名前と服装のみでシェルシェのことを伝えるのは難しいことだった。
結局、「どこかで見たような気がする」ということしか分からず、暑い季節ではないにしても日が照っている中ずっと歩いているのは疲れるものだ。丁度良いところでベンチを見つけ、二人はそこに腰かけ一度休憩することにした。
「⋯⋯子供と犬ほど行動が予測できないものはないよな」
「そうね。待ってなさいって言ったのに、どうしていなくなってしまったのかしら」
「攫われたか、何かに興味をそそられて行ってしまったか、犬を見つけて帰ったかの三つだろうな」
シャルフは指を三本立てた。ドルチェがその指を掴んで本来関節が曲がる方とは反対に力を入れた。
「い、痛っお前」
「再開するわよ。もう一時になってしまったわ」
ぱっと手を離され、シャルフは指をさすりながら時計をちらと見た。時計の針は一時十六分を指している。
「一時⋯⋯シェルシェは昼飯を済ませてから来たんだよな?」
「え?」
「もうとっくに昼飯時だぞ、もし食べてなければ今頃腹減って動けないんじゃないか?」
シャルフの言葉にドルチェは数回瞬くと、少しだけ口角を上げて元いた場所へつま先を向けた。
「なかなか、今日は勘が冴えてるのね」
二人は走って戻り、近所に料理屋や何か“美味しい匂い”のする場所を探した。犬も見つけなければならないが、それより先にシェルシェを探さないことには始まらない。どこかに座り込んでいるならば、自分たちの住んでいる四番街の周辺だろうと判断した。
聞き込みでは何の手がかりも得られなかった、しかしここもそう広い地域じゃない。あの子供の足なら遠くには行けないはずなのだ。
「よし、虱潰しに探すしかないな」
ドルチェとシャルフは急いで飲食店へ向かい始めた。
△▽△▽
「お腹空いたなぁ⋯⋯」
シェルシェは座り込んでいた。待っていろと言われたが、シェルシェの頭はいなくなってしまった家族のことでいっぱいだ。道路の向こう、人混みの中に大好きなフレールを見た気がしたのだ。
結論を言えばそれはフレールではなく、ついでに道に迷ったわけだが。
「お姉ちゃんたちどこにいるかな……」
自分のせいではあるが、一人ぼっちでいるのは彼女にはかなり辛いものがあった。いつも傍にはフレールがいたシェルシェにとって、一人の時間は慣れないものだ。
迷子になったときにはそこで止まって動かないこと、と教えてくれたのはシェルシェの母だった。好奇心が旺盛だからか、それともシェルシェが特別お転婆なのかは分からないが、よく迷子になっていた。その度にフレールが母や父を連れてきて、嬉しそうに笑う。
思い浮かべていると泣きそうになってきた。家にお金を置いてきたので今日食べる物も持っていない。
「早く迎えに来て⋯⋯」
シェルシェの小さな声を聞いたのは足元に咲いていた花だけだった。
▽△▽△
最初に入ったのはパン屋だった。外から見てもシェルシェは見当たらなかったが、主人に話を聞くと店の前を通ったかも知れないなと言う。
「ありがとう、お礼にパンを買わせてちょうだい」
クロワッサンを一つ指さす。浅黒い肌と白い歯のコントラストが綺麗な笑顔を見せてくれた主人に代金を払い、店を出た。
「なあ、そのクロワッサンは⋯⋯」
「あげないわよ」
「だよなぁ」
そんなやり取りをして、二人は果物屋に向かった。店主は気の強そうな女性だった。シェルシェはこの店の常連だったらしい。
「シェルシェちゃんに何かあったのかい?」
「いえ、少しはぐれてしまって⋯⋯」
「あらそう⋯⋯あでも心配いらないわね、あの子にはフレールがいるからねえ」
「貴女はフレールをご存知で?」
にこにこと笑って、彼女は話始める。
「いつだったかねえ、シェルシェちゃんが迷子になっちゃったときだよ。フレールがお母さんとお父さんをシェルシェちゃんとこに引っ張って連れて行ったんだ。シェルシェちゃんもお利口さんで、じっと座って迎えが来るのを待ってたんだよ。その時にピーンときたね、フレールが人の言葉を理解してるって」
満足気に頷く彼女、ドルチェとシャルフは顔を見合ったが、シャルフがすぐに口を開いた。
「⋯⋯お姉さん、今日はフレールを見かけましたか?」
「やだねお姉さんだなんて。フレールなら⋯⋯」
そこ。と指された指の方向を見ると、首から何かを提げたフレール、らしき大きな犬がゆっくりと確実な足取りで歩いてきていた。
「!? い、犬の方が先に見つかるなんてっ」
「とっとにかく、逃げないようにそっと捕まえるんだ!」
こちらに向かってくるフレールと、じりじり距離を詰めていく。シャルフがゆっくり手を伸ばすと、フレールは怖がるどころか、喜んでいるようにさえ見えた。
「よしよし、良い子だ。お前の家族を探さないとな」
「⋯⋯犬の扱いが上手いのね」
「まあな。昔よく遊んだし⋯⋯」
シャルフの昔話が始まりそうになったとき、それを遮ってフレールが一声鳴いた。そして手をすり抜けて歩いていく。
「お、追いかけるわよ」
フレールは少し進むと後ろを振り返り、まるでどこかへ連れて行こうとしているようだった。そこで先ほどの店主の話を思い出す。
「フレールの向かう先に、シェルシェがいるかも知れないな」
付かず離れず、絶妙な距離感を保ってフレールと探偵たちは歩いていった。段々と人が少なくなってきたとき、不意にフレールが二回鳴いた。
周りを見渡す、しかしシェルシェの姿は見当たらない。と、思った瞬間。
「フレール⋯⋯?」
建物と建物の間から、淡い栗色が覗いた。出てきたのはシェルシェだったのだ。
「フレール!」
わんっ、と嬉しそうな声で鳴いた賢いシェルシェの家族は、走ってシェルシェの元へ行った。シェルシェもまた、嬉しそうに名前を呼んでフレールを抱き締める。
「どこに行ってたの、心配したんだよ!」
頭を撫でながら、半分泣きそうな顔でシェルシェはそう言った。
「良かったわね、見つかって」
「うんっ! ありがとう、お姉ちゃんたち!」
「俺たち何もしてないけどな⋯⋯それにしても、フレールは本当にお利口だな」
「だってフレールはいい子だもんっ」
シェルシェは今日一番の笑顔で言った。シャルフはフレールを撫でていたが、立ち上がるとふう、と息を吐く。
「さて、と⋯⋯一回戻るか」
「そうね。あ、シェルシェ」
シェルシェの手を取ると、ドルチェは先ほど買ったクロワッサンを手渡した。
「お腹が空いているんじゃないかと思って買ってきたわ」
「わ⋯⋯ありがとう!」
「へえ、自分で食べるのかと思ってたぞ」
「そんなわけないでしょう」
受け取ったクロワッサンを紙袋から取り出し、早速頬張ったシェルシェの顔をじっと見つめていたフレールが彼女のスカートを噛んで引っ張る。
「むぐ、なに? フレール」
「どこかに連れて行きたいみたいね」
ドルチェが言うと、フレールはわん、と一言。歩き始めたフレールに、三人は行列を作ってついて行った。
●○●○●○
四番街を過ぎ、三番街を過ぎたあたりでフレールは一度止まった。目の前には「国立博物館」の文字が。
「⋯⋯博物館?」
フレールはわんと一鳴きして中に入った。シェルシェと二人は慌てて追いかける。
月に一度の無料開放日だからか、中は人でごった返していた。フレールは器用に人を掻き分けて進んでいく、しかし絶対にシェルシェが追いつけるスピードで進んでいった。
ドルチェは見失わないように背伸びをしながら進んでいたが、途中で人とぶつかって三人とはぐれてしまった。すぐ手元にドルチェがいないことに気づいてシャルフが足を止める。
「おいドルチェ? ドルチェ」
ドルチェよりもシェルシェやフレールを優先すべきだろうが、迷わずシャルフは長身を生かして銀髪の少女を探し始めた。
嫌がってでも服を掴ませるとかしておけば、とシャルフは後悔した。なんせ国立博物館だ、展示の規模が違う。フレールが見つかったと思ったら今度はドルチェか?
人を掻き分け進みつつ、意識の端ではシェルシェとフレールのことも考えていた。仕事ができないとドルチェに怒られるからというのもあったが、純粋に二人が心配なのもあった。ドルチェならどう動くか、立ち止まって考えた末に出口に向かおうと振り返った時、誰かにぶつかって慌てて謝った。
「あ、すみませ」
「何してるの、こんなところに突っ立って」
「ドルチェ! どこにいたんだ?」
「後ろに。ちょっと離れただけではぐれたと勘違いしたのでしょう? 見当違いな方向に進むのを見ていたら立ち止まったから近づいたら、今度はいきなり振り返るから驚いたわ。貴方の行動にはいつも驚かされる、もちろん悪い意味よ」
「あー……」
シャルフは気まずそうにドルチェの足元に跪くと、自分の右腕に座らせるようにして抱き上げた。
「な、シャルフ!? ちょ、ちょっと、」
「お前が見つかったから、後はシェルシェたちを見つけないとだろ? 俺はお前の足ってわけだ」
自慢げに言ったシャルフに、ドルチェは頬を抓ろうとしてやめ、黒髪を撫でた。
「……大男も中々使えるじゃない」
「俺は大男じゃないっつの」
そう言いつつ進んで行くと、わんと鳴き声が聞こえた。途端に真剣な声でシャルフが尋ねる。
「ドルチェ、見えるか?」
「今探して……」
二人は目を凝らした。が、それも刹那のことだった。シャルフの足にどかん、と衝撃。
「どわっ!」
「シェルシェ! ぶつかったら危ないでしょう!」
聞こえたのは知らない女性の声だった。振り返ると、フレールとシェルシェと、それを叱る……母親? 後ろには父親らしき男性もいた。
ドルチェがシャルフを腕に触れると、軽々ふわりと降りた。母親が頭を下げる。
「すみません、うちの子が……お怪我は無いですか?」
「大丈夫です、頑丈にできてますから。私はドルチェ・アメールと申します。失礼ですけれど、貴女は彼女の……」
ドルチェが軽くスカートを摘んでお辞儀をすると、その女性は困ったように笑って言った。
「シェルシェの母です。話は少しですけど娘から聞きました、本当にこの子は……ご迷惑をおかけしました。ほらシェルシェも謝りなさい」
シェルシェが謝ろうとするのをドルチェは遮った。
「今日はシェルシェちゃんに遊んでいただいて、とても楽しかったので叱らないであげてください」
ドルチェの言葉に母親は驚いたようだったが、すぐに笑顔に戻った。
「まあ……小さいのに、とても賢いのね。そうだお父さん、謝礼を」
お父さんと呼ばれた男性……つまりシェルシェの父親は深くお辞儀をした。
「娘がお世話になりましたからね、お礼をさせてください。これから家に帰るのですが、差し支えなければ夕食をご馳走しよう」
シャルフはドルチェの返事も待たずに、「ぜひ」と返事をした。
「じゃあ、私たちの家でゆっくりして行ってください」
父親がそう言うのと同時にシェルシェがドルチェに抱きついた。シャルフの足を踏んでやろうと思ったがやめて、小さな身体を抱きとめる。
「お姉ちゃん、フレールがね、ママとパパのところにつれてきてくれたの! お姉ちゃんたちがフレールをつれてきてくれたから、あたしちゃんとママと会えたの!」
「そうね、でもお礼はフレールに言ってちょうだい。お利口さんなフレールには、帰ったらご褒美をあげなきゃね」
シェルシェのふわふわな髪を優しく撫で、シェルシェに引っ張られるようにして帰路についた。
●○●○●○
シェルシェの家でたくさん食事をご馳走になり、夜が更けて気がつくともう八時を過ぎていた。事務所兼自宅に帰ってくると、開口一番シャルフはずっと抱いていた疑問を投げつける。
「……なあ、お前は両親がいたことに驚いてなかったよな」
「え?」
「シェルシェのことだよ、パパもママもいないの~って言ってたのに」
シャルフのものまねに眉を顰めてドルチェはソファに座ると足を組んだ。
「簡単ね。果物屋の女性の話、覚えているかしら?」
「あー、何となくなら」
ドルチェの話を聞きながら、シャルフは黒い上着を脱いでソファに腰掛ける。ドルチェは構わず続けた。
「シェルシェが迷子になるとフレールはいつも両親をシェルシェの元へ案内していたと言っていたでしょう? シェルシェを見つけたフレールは両親の元へ案内したのよ。あんなにお利口さんなフレールが、公園でいきなり逃げ出すなんてことするはずないもの。夕食の時に話していたでしょう、朝博物館に行ってくると両親が言っていたのをフレールは聞いていたんだわ。きっと公園にいて、シェルシェがパパやママに会いたいとでも言ったのね。シェルシェを連れて行こうとして、置いてけぼりにしてしまったのかも知れないわ」
「なるほどなぁ……フレールは本当にお利口さんだったな」
「ええ、貴方よりずっと。シェルシェに言って交換してもらおうかしら?」
ドルチェがおどけるとシャルフがそれを本気にして慌てて言った。
「おいおい、それは無いだろ! 腹減ってるんじゃないかって言ったのは俺だぞ」
「分かってるわよ、今日は良い働きだったわ」
シャルフの淹れた紅茶を啜り、ドルチェは話を変えた。
「それより私は、貴方が犬とよく遊んだと言っていたことの方が驚きだったわ。段ボールのベッドで一緒に寝ていたの?」
「犬? ああ、……まあそんなとこだな。野良犬だったけど、良い奴だったよ」
「貴方の過去にどんなことがあったのか、そう言えば聞いてなかったわ」
紅茶を啜りながらドルチェは「話してちょうだい」と目で訴えた。しかしシャルフは肩を竦めておどけてみせる。
「今お前とこうして探偵やってることの方が俺にとっては大事なんでね。ま、気が向いたら、寝る前の絵本の代わりに昔話の一つや二つしてやらないこともないけど」
「絵本じゃなくてミステリを読み聞かせてちょうだい、子供じゃないのよ」
髪を解きながらドルチェが眉間に皺を寄せる。シャルフは内心、「子供じゃないって言う奴ほど子供だ」と思った。
「あ、そういや、報酬たんまりもらったな」
「そうね。活動資金はあればある方が良いけれど、私たちのやった仕事に見合わないわ」
「…………」
シャルフが驚いたような顔でドルチェを見つめる。ドルチェは立ち上がって着替えを探しつつ言った。
「何? 意外だと?」
「しょうがないだろ。俺にとってはかなりの報酬だったけど、お前から見ればはした金なんじゃないのか? 出が違えば価値観は異なるもんだ」
特に金銭感覚はな、と付け加えた。ドルチェの手が止まる。
「失礼ね。私が、他人が精を出して働いて得たお金をはした金と見なすような人間に見えるとでも言うの? それにあの家族はどちらかと言えば裕福な方だったわ。家具のブランド、貴方は知らなかったでしょうけれど有名な物だった」
「よくもまあ人間観察が上手いこと……まあ、お前ははした金だったとしてもそれをそうだと言うような奴じゃないってことは知ってたよ、悪かった」
シャルフの謝罪を聞いて、背を向けるとぽつりとドルチェが呟いた。
「……今日受け取った報酬で、明日は買い物ね」
「は? 駄目だ、片付けが先だろ? もう物を置くスペースは……」
言いかけたのを、ドルチェはわざと聞かないふりをするようにしてシャワールームへ行った。
「あっ! ったくもう……」
追いかけようとしてやめて、シャルフは一人になった部屋の中でぼんやりと昔のことを思い出していた。
「……まっ、なんとかなるだろ」
自分を鼓舞するようにして独り言を落とし、足元に転がった電球を眺めていた。
2018年7月
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