Case,3 「何でも屋ではございません」

 

 身なりを整え朝食の席に着くドルチェの前に、丁度できあがった品々を並べていく。シャルフはコックのように胸に手を添え仰々しく言った。

「アスパラガスのソース・ムスリン添え、コーンと人参のオムレツ、ガレット、オニオンスープでございます」

「……間違えてレストランに来てしまったようだわ。今日は妙に張り切ってるのね?」

「気が向いたんだよ。それに食材が余ってたんだ」

 ドルチェは柔らかいアスパラガスを頬張る。と、落とさないように手で頬を押さえた。

「頬が落ちそうよ、とても美味しい!」

「お気に召したようでなにより。あ、そういや」

 シャルフはサイドテーブルに置いておいた一通の手紙をドルチェに差し出した。蝋でしっかりと封をされている。差出人の名前は……

「クラウンからだわ、どうしたのかしら」

 手紙を受け取ると、ドルチェはフォークを置いて封を開けた。手紙は二枚に渡って、走り気味の字で書かれている。

「読み上げるわよ。……ブランノワールの探偵へ。

 突然の手紙に驚いたことだろう。あれから久しいが、健康に暮らしているだろうか? 申し訳無いが私の周辺は至って平和で、事件などは中々起こらず今日も何事もなく暮らしている。

 ではどうして手紙を寄越したかと言うと、あなた方が屋敷に来てくれた後で父や母と話したことを報告する為だ。とは言ってもあまり良い結果とは言えなかった。やはり家を継ぐのは弟になると、もはや弟の中でも決まっているらしい。だが良いこともあった。屋敷にはメイドが戻ってきた。あの料理を運んで来た元メイドも、今は私の屋敷にいる。これはあなた方のおかげだ、本当に感謝している。

 話は変わるが、ドルチェとは一度チェスをしてみたい。シャルフには勝てる自信があるが、ドルチェには勝てるか怪しいところだ。今度屋敷に招待するときにはぜひ手合わせ願おう。二人と食事を共にできる日が楽しみだ。ブランノワールの友人へ……だそうよ」

「へえ……上手くいったんだな」

「そうみたいね。それにしても、随分毒気の無い文章だわ。すっかり好青年といった風ね」

 手紙を丁寧に封筒へ仕舞い、食事を再開したドルチェにシャルフは呆れたような顔を向けた。

「どうだか。また会ったらあの嫌味たらしい喋り方になるよ」

「それは貴方もでしょう、シャルフ。ふふ……ブランノワールの友人、ね」

「全く、嬉しそうにするんだからな……」

 やれやれ、とシャルフは大きな口で皿の上のものを胃に収めた。料理を味わっているのかどうかは怪しいところである。

 食後の紅茶はドルチェのお気に入りのキャンディーを淹れた。ソファに並んで優雅な午後のひとときを楽しんでいると、不意にドンドン、と低い音が響いた。そして勢いよく扉が開かれる。

「探偵さんっ! いますか!」

 

     ○●○●○

 

 来訪者はフレールを連れたシェルシェだった。デジャビュのような光景にドルチェが笑う。

「久しぶりね、シェルシェ。会いたかったわ」

「あたしも会いたかった! フレールもお姉ちゃんたちに会いたがってたの。ね、フレール」

 わん、と返事をするように鳴いたフレールに水を出して、シャルフは大きな身体を撫でてやった。もちろんシェルシェにもミルクティーを出し、ドルチェはサイドテーブルに置いた手帳を手に取った。

「さて、今度はお母様探し? それとも何かが無くなってしまったのかしら」

「ううん。あたしじゃなくて、ニコラっていうんだけど……」

「ニコラ?」

 聞き覚えの無い名前にドルチェは慌ててメモをとった。シェルシェは空中を見ながら続ける。

「えっと、近くに住んでる男の子で、背はあたしよりちょっと大きくて、そばかすがあって、」

「ええ、それで?」

「最近元気がないみたいで、心配だったからどうしたの? って声をかけたの。そしたら、家で果物が盗まれたんだって。ニコラのおうちは果物屋さんだから、商品が盗まれてお母さんが悲しんでて、だから元気がないの。でも果物が盗まれるところ、誰も見てないから犯人も分からないって……」

 シェルシェの話を聞き手帳に書き取りながら、ドルチェはいけないことだと知りつつ胸が高鳴るのを感じていた。初めての事件らしい事件、初めての「本当の」依頼。伏せの状態で寝ているフレールを撫でていたシャルフも、これには反応せざるを得ないようでドルチェと目を合わせるとウィンクをした。ドルチェもそれに返す。

「あとはよく思い出せない……あ! ニコラを呼べば良いんだ。ニコラ、ニコラっ!」

 玄関の扉を開けて、シェルシェは大きな声で呼んだ。少しの静寂の後、扉の隙間からシトロンのような髪が見える。

「……え、と……」

「はい、これがニコラだよ。ほら挨拶して」

 シェルシェはニコラと呼ばれた男の子の肩に手を置いて、にこりと笑った。男の子はソファにも座らず立ったまま、視線を上へ下へ、右へ左へと泳がせ小さな声で呟く。

「……ニコラ、です」

「こんにちはニコラ。立っていないで座ってちょうだい、貴方の話を聞かせてくれる?」

 そう言われ、びくりと肩を震わせるとおずおずとソファに座った。と、シャルフが茶葉の缶を持って「ストレート? ミルクティー?」と聞く。「あ、ストレートで……」

 ドルチェは気合を入れて手帳を構えた。ニコラの視線は泳いだまま。

「自己紹介がまだだったわね。私はドルチェ・アメールよ。紅茶を淹れている大男がシャルフ」

「シャルフ・ブラント。あと俺は大男じゃないぞ」

 淹れた紅茶をテーブルに置きながらシャルフが苦く零した。ニコラは目を瞬かせシャルフを見上げる。

「……初対面だから話しにくいのよね。そうでしょう? いくつか質問をするわ、それに答えて」

 ペンを持った手を軽く振りドルチェは笑った。ニコラはぴんと背筋を伸ばし拳を握る。

「ではまず一つ目。果物が盗まれたのはいつ頃の話なの?」

「ええと……三日前……です、……」

「なるほど、では次。どんな果物が盗まれたの?」

「えっ? ……えっと、りんごが三つ……」

「盗まれたことに気がついたのはどれくらいの時間?」

「それは……えっと、お昼過ぎで、マ……お母さんが居眠りをした時に盗まれて」

「よく覚えてるのね。上出来よ、偉いわ」

 にこり、笑ってドルチェは手帳を閉じた。そしてシャルフにその手帳を渡す。

「え、俺が持つの?」

「当たり前でしょう。さあ、調査開始よ!」

 

 

 ドルチェを先頭に、ニコラ、シェルシェ、フレール、シャルフの順番で一つの列ができる。すれ違う人々の視線はその奇妙な行列に注がれていた。

「果物屋はこの先だったわね?」

 振り返ったドルチェと目が合ったシャルフはポケットから地図を取り出し、確認した。シャルフは探偵の必須道具とドルチェの手帳を入れたモノトーンのトランクを持って、更にフレールのリードも手に持っている。

「あ、そこの道を右に曲がってください、」

「ええ。……行き先はニコラの家なのだから、貴方に聞くのが一番早かったわね」

 その言葉を聞いてシャルフはこっそりと地図をトランクに仕舞った。

 角を曲がり、しばらく歩くと見覚えのある看板が目に入る。その果物屋はシェルシェとフレールを探した時に立ち寄った果物屋だった。

「あら、ブランノワールの二人じゃないの! 久しぶりねえ~、ってシェルシェちゃんもニコラもいるじゃない。おかえりなさい」

「ただいま、ママ」

 ニコラの母親は、以前フレールのことを教えてくれた果物屋の店主だった。名はルダ・ボルールと名乗った。

「今日は少し聞きたいことがあって……上がっても良いかしら?」

「ああ構いませんよ。あ! 泥棒のことで?」

「ええ、少しでもお手伝いできればと思って。私たちは探偵ですから」

 ドルチェは誇らしげに笑って胸に手を当てた。シャルフもルダに微笑みかける。

「じゃあ、狭い家で申し訳ないけど、聞いてもらえる?」

 ルダに招かれ、探偵一行は中に入った。

 お茶を用意してくれたニコラも席に着き、用意は整った。隣に座ったシャルフに手帳を取り出すように言い、ペンを持って構えたドルチェが促すとルダは起こったことを話し始める。

「そうだねえ、たしか三日前に盗まれたのかな。りんごが何個か盗まれたんだよ。あたしが店番だったんだけど、お客が来なくて暇してて、恥ずかしい話なんだけどさ、ちょっと眠かったんだよ。うとうとしてて、ほんのちょっとだけ目を瞑って、そしたらがたんって音がして目を覚ましたんだ。床にりんごが転がってて、盗まれたって気づいたよ」

「そのときはニコラはどこに?」

「遊びに行ってたんだ。そうだったよねえ?」

「そう、向こうの公園に遊びに行ってて……」

 その場に居合わせなかった罪悪感からか、ニコラが顔を上げることは無かった。下唇をきゅ、と噛んでいる。

 なるほど、と頷いてドルチェは手帳に書き込んだ。シャルフは真面目に考えているのか何も考えていないのか分からない顔をしている。

「犯人かも知れない、と思う人物は?」

「いないねえ。この近辺じゃみんな顔見知りだし、不審な動きをすればいくらあたしでも分かるからね」

「…………」

 顎に手を当て考え込む。シャルフはフレールとじゃれていたシェルシェに話しかけた。

「シェルシェは見てないのか? なんか、手がかりになるようなこととか」

「うーん……。手がかり……」

 シェルシェも一緒になって、眉間に皺を寄せて考え込んだ。うーん、うーん、と考え込んだ末に、あ! と声を上げる。

「あのね、りんごの欠片をどこかで見た気がする!」

「どこで見たの?」

「ええっと、フレールとお散歩してて……」

 フレールのことを見つめながら懸命に記憶を引っ張り出す。そして暫しの沈黙の後、フレールが身体を起こして歩き始めた。

「あっ、フレール、」

 これはフレールが案内してくれるらしい、と前回シェルシェを探したときのことを思い出してドルチェとシャルフは立ち上がる。フレールが賢い犬だということを、ニコラもルダも充分に知っていた。

「いってらっしゃい、気をつけてね!」

「い、いってきます!」

 

     ○●○●○

 

 今度はフレールを先頭にして、四人と一匹は散歩道を進む。

「にしても、果物泥棒か……」

「何か思うことでも?」

 シャルフの独り言にドルチェが返すと、片眉を上げてシャルフは言った。

「いや? 警察に言わなくて良いのかなと思っただけだ」

「……確かに、それはそうね」

 泥棒の被害に遭ったのは少なくとも今まで一度だけ。これが続くようなら、シャルフの言う通り警察に通報するべきである。しかしドルチェは息を潜めて囁いた。

「けれど探偵の仕事がなくなってしまうわ」

「はあ……お前がそんなこと言うなんて」

「だって、こんな事件二度と無いかも知れないのよ!」

「それもそうだな」

 シャルフは並んで歩くニコラとシェルシェを見つめる。振り返ったニコラの頭をぽんぽん、と撫でた。

「お前らは随分仲が良いな」

「あ、えと……」

 恥じてか目を逸らすニコラの腕をシェルシェが取って喜んで笑う。

「えへへっ、ニコラはあたしにもフレールにも優しくしてくれるの!」

「……そんなことないよ、」

「そんなことあるよ!」

「二人はどうして出会ったの?」

 シェルシェが息を巻いて言うのを見てドルチェは興味深げに問うた。

「あたしは何年か前にこの街に引っ越してきたから、そのときはあんまり友達いなかったんだけど……ニコラは、公園でフレールと遊んでたあたしに声をかけてくれたの」

 ね、とシェルシェがニコラを見つめるが、ニコラは目を逸らして頬を掻くばかりだ。ドルチェはシャルフと目を合わせて笑った。

「仲良しなのね。羨ましいわ」

「お姉ちゃんは友達いないの?」

「あら失礼だこと。シェルシェ、貴女がいるじゃない。それにシャルフやニコラや……もちろんフレールも」

「あはは、そっかあ」

 実を言えばドルチェは同年代の友人がそれほどいなかったが、それを察したようなシャルフの視線に肘で腹を突いて対抗した。

「もうそろそろ公園ね」

 ドルチェの言葉で一行は真剣な表情を帯びた。本来の目的である犯行の欠片を探していく。

「うーん……多分この近くだったと思う」

 フレールのリードはシェルシェが持っていたが、舵を取るのはフレール自身である。フレールが進んでいくのについて行きながら、シェルシェはふと思い出した。

「あっ、ここ!」

 シェルシェはフレールが止まった時に叫んだ。そこは住宅の並んだ中にぽかりと空いた空間、つまり公園だった。

 ドルチェは公園の入口でスカートを手で押さえしゃがんだ。地面を見てみると、微かにりんごの赤い皮の欠片が砂や土に混ざって見える。

「本当ね、ここだわ」

「…………」

 りんごの欠片があるであろう地面はドルチェやシェルシェやニコラの頭で全く見えず、シャルフはフレールの横に立って見ることを諦めた。

「犯人はここでりんごを食べたってこと?」

 シェルシェはドルチェに聞いた。はあ、と溜息を吐いてドルチェが立ち上がる。

「そうね……犯人がここで食べたというか、」

 周りを見回し、ドルチェは腕を組んだ。シェルシェと共にりんごの皮の欠片を集めようとしているニコラに、ドルチェは問う。

「ニコラ、事件が起きたときに公園で……ここで遊んでいたと言ったわね」

「ああ、うん……」

「りんごを食べている人はいなかった?」

「……いなかった、です」

「ではここで、猫を見なかった?」

「ね、猫?」

「そう、猫よ」

 ニコラも立ち上がって、周りを見回した。それから下唇を噛んで考え込み、首を振る。

「ごめんなさい、あんまり覚えてなくて……」

「そう……なら良いわ」

 ドルチェはフレールと戯れてたシャルフに命じた。

「シャルフ、フレールと猫を探してちょうだい」

「猫? 犬と一緒じゃ猫を避けちゃうだろ」

「猫がみんな犬を嫌ってるとは限らないわよ?」

 不敵に笑ったドルチェ以外、その言葉の意味に気づいている者はいない。

 

 シャルフがフレールと公園の中を歩き始めてから、ドルチェはシェルシェとニコラを連れて果物屋へ向かった。シェルシェはドルチェの腕にしがみつく。

「お姉ちゃんはもう犯人分かったの?」

「いいえ。けれど、そうね。見当はついたと言ってもいいかしら」

「すごい……ほんとに探偵だ!」

 喜ぶシェルシェに、ドルチェは頭を撫でながら言う。

「シャルフはきちんと猫を捕まえておけるかしら」

「お兄ちゃんならだいじょうぶだよ、だっておっきいし」

「ふふ、そうね。大男だもの」

 果物屋へ戻ると、シャルフの置いていったトランクから財布を取り出したドルチェが店頭に並んでいるフルーツを次々と手に取った。シェルシェは大好きなパイナップルをドルチェに渡す。

「シェルシェったら……でも良いわ。ここにある果物を全種類買って行くわよ」

「な、なんの為に……?」

 ニコラが思わず問いかける。

「猫を振るいにかけるの。まあ、振るいにかけるほどシャルフが捕まえられたらの話だけれど……公園に着いたら説明するわ」

 ニコラにも選ばせ、追加でオレンジも手に取り、購入。驚くルダをよそ目に三人で両手に抱えても落としてしまいそうになる程の果物を公園へ持って行った。

 公園の中央に、大人が四人は座れそうなほど大きな布を敷き全てのフルーツを置いて並べていく。

「こんなにたくさんのフルーツどうするの?」

「いい? もしも犯人が悪い人間なら、ルダが眠っているのを良いことに、きっと強盗を働いたと思うの。それをりんご三つしか盗まずに逃げた。それはどうしてだと思う?」

 人差し指をぴんと立ててドルチェは言う。シェルシェは首を傾げ難しそうに顔を顰めた。

「うーん……りんごが好きだから?」

「それも、あるかも知れないわね。でもそうではないわ。犯人はきっと優しい人なのよ」

「ええ? 優しいのに、盗んだの?」

 ますます分からないといった風にシェルシェが顔を顰める。ドルチェは続けて言った。

「まずはシャルフが猫を連れて来るのを待ちましょうか」

 言ったのを聞いていたかのごとく、遠くから悲鳴が聞こえた。

「いだだだ、あばれ、るなっ、だああ!」

 両手に四匹もの猫を、そして足元には大人しい猫一匹と犬とを引き連れて公園に登場した黒くて大きな影。

「……シャルフね」

 苦戦しつつシャルフはやっとのことで合計五匹の猫を地面に降ろすと、その瞬間に二匹が一目散に逃げる。もはや追いかけることも諦め地面に座り込んだ。

「は……はあ……ドルチェ、本当に猫を集めて意味があったのか? 今のところ、新しく服を買う口実ができたくらいしか思いつかな……いや、待て、そのフルーツはなんだ!」

 引っかかれたところをハンカチで押さえながらシャルフが言うと、残った三匹の猫は並んだフルーツに興味を示した。

「ご苦労さま。もうこれで答えは出たと言っても過言ではないわ、上出来。お利口ね、シャルフ」

 座ったシャルフの乱れた髪を手で直し、ドルチェは微笑んだ。それから猫に目をやる。色の白い二匹はしばらく果物の周りを回っていたが、しばらくしていちごを口に咥えるとそこから興味を無くしたように茂みの方へ行ってしまった。灰色の猫だけが残り、そしてりんごに齧りつく。

「あっ、にゃんこ!」

 追いかけようとしたシェルシェの手を掴んだ。

「大丈夫、これで結論は出たわ。では、説明を――いいえ、推理を始めましょう。ねえ、この猫を見て。さっきから全然逃げないわね。どうしてだと思う?」

 問いかけにはシェルシェが挙手をして答えた。

「はいっ! フルーツが好きだから!」

「ぶー、外れよ。シャルフ、分かる?」

「あー……」

 引っ掻き傷が気になって答えが出ないのを見て、ドルチェは先程から静かなニコラに視線を向けた。

「ニコラ、分かるわよね?」

「え……? ぼ、……ぼくは……」

 きゅ、と噛み締めた唇からは声が出ない。ドルチェは服が汚れないようフルーツの隣に座り二人にも促すと、猫の背を優しく撫でた。

「この子は人に慣れているわ、撫でても嫌がらない。それにフレールと一緒に歩いてきたわね」

 わん、とフレールが鳴く。

「シェルシェ、この公園はフレールとよくお散歩するところなのでしょう?」

「うん、よくここでボール遊びをするの」

「仲の悪いはずの犬と喧嘩にならず、野良猫なのに人懐こい。そして迷わずりんごに齧りついた。盗まれたのはりんご……もう分かるかしら? 犯人は――」

「……ま、って……くださ、い」

 結論に差し掛かった時。呟かれた小さな震えた声に反応して、猫はニコラへ擦り寄った。ニコラは目を伏せ、猫の頭をゆっくりと撫でる。

「……ぼくに、話させてほしいんです」

「……ニコラ?」

 驚いたのはドルチェではなくシェルシェだった。丸い目がより丸く、大きく見開かれる。

「ごめんねシェルシェ。ごめんなさい、ドルチェさんたち……ぼくが話さないと、じゃないと……どうしても許されない気がするから」

 初めてニコラが真っ直ぐにドルチェを見た瞬間だった。

「ええ、……構わないわ」

「…………ぼくは、事件が起きたとき公園で遊んでた、って言いました。嘘ではないけど、でもそれは少し違うんです――」

 

 ぼくは朝から公園で、前から懐いてくれてた猫、ティアと遊んでた。くたびれたボールで遊んだり、追いかけっこをしたり。しばらくして、ぼくがお腹が空いて帰ろうと思った時に、初めてぼくの後ろをティアがついてきたんだ。

「お腹がすいてるのかな……」

 にゃあ、と足に擦り寄るティアを見てたらなんだか可哀想になって、おやつを買ってあげようと思った。

「ティア、何が食べたい?」

「にゃあ」

 何が食べたいかなんてもちろん聞いても分からなかった。仕方なくティアを抱きかかえて、それから猫缶を買おうと思ってお店を覗いた。でも……。

 

「――でもぼくの家……その、えっと……。……貧乏、だから。その時持ってたお金じゃ猫缶は買えなかったんだ。家に着いて、お店にフルーツが並んでるのを見て……」

「…………」

 ドルチェやシェルシェの真剣な目を見ていられず、ニコラはティアに目を落とした。

「……盗もうと、思ってたわけじゃなくて……。ママ、犬は平気なんだけど、猫が苦手なんです。猫の話も聞きたくないってくらい、猫が嫌いで……だから、ティアの為にりんごを買いたいって言ったら、反対されると思ったんだ。それで、後でお金を置いておけばこっそり取っても気づかないと思って――」

 

 ティアを降ろして、そっと様子を伺った。お客さんは全然いなくて、それどころか一瞬ママもいないように見えた。そしたら、ママはうとうとしてた。いつもはそんなことないのに、今日、しかも今この瞬間に限って居眠りなんて、きっと神様がティアにりんごをあげろって言ってるんだと思った。

「……ティア、静かにここで待っててね」

 ぼくはママが寝たのを確認して、それからりんごを三つ抱えた。でもバランスを崩しちゃって、足が当たってりんごの山が崩れそうになった。焦って、どうしたらいいか分からなくなって、お店の横、隙間にティアと隠れて……しばらくしてから、公園まで走って行った。

「はあ、はあ……は、あ……」

 公園の入口で、ぼくは息を切らして座り込んだ。お腹が空いてたのと、いけないことをしちゃったんだって、不安でベンチに行くのも、億劫になって。

「ごめんね、ティア。……はい、りんごだよ」

 三つのりんごのうち、一つはティアにあげて、あとの二つはぼくが自分で食べた。

 

「地面にりんごの欠片が落ちてたのは、ティアが食べたから……食べ終わって、ティアを撫でてたら眠くなってきて、ティアも眠たそうにしてたからその日は別れてぼくはもう家に帰ったんだ。そしたら、ママがりんご泥棒が出た、盗まれたって悲しんでた……。それで、ああ、ぼくはなんてことを……しちゃったんだ、って、」

 そこでニコラはわっと顔を覆って泣き始めた。心配そうにティアが顔を覗き込んでいる。

「ニコラ……」

 シェルシェは何も言えなかった。それは失望でも落胆でもなく、しかし同情でもなかった。代わりのようにドルチェが口を開く。その口元には優しげな微笑みが浮かんでいた。

「……ニコラ、この三日間大変だったでしょう」

 ドルチェの優しい声に、ニコラは顔を上げた。しかしまたぐ、と顔を歪ませる。

「ティアの為とはいえ、貴方のしたことは泥棒だわ。それは悪い事よ。お母様にも言えず、シェルシェにも言えず、きっとずっと苦しかったのでしょう。……けれど、貴方は正直にそれを私たちに話してくれた」

「で、でもっ、……!」

「最後は、一番話さなくてはいけない人に話さなくてはね。それが、償いというものだわ」

 ドルチェがりんごを手に取った。ニコラは涙を拭くと、ティアを抱きかかえて立ち上がる。

「……ぼく、ママに、全部話します」

 

     □■□■□

 

 果物屋にはお客はおらず、ルダは少し早い店じまいの準備をしていた。ティアを抱えたニコラは、りんごを盗んだ時にしてしまったように、店の横に隠れた。深呼吸をする。

「……言わなきゃ」

 心臓はうるさかったが、ニコラはゆっくり、震える足を踏み出した。ルダがニコラの姿に気付いてから、悲鳴をあげるまでに時間はほとんどかからなかった。

「なっ! な、ニコラっ! 何で猫を……!」

「ママ! ぼくの話を聞いて――」

 

     □■□■□

 

 フルーツの片付けはドルチェとシャルフの仕事だった。ルダの元へ向かったニコラの後をシェルシェが追いかけて行ったのを、二人は止めなかったからである。

「……俺は全然分からなかったな」

 シャルフは果物の山からいちごを一つ摘みぱくりと口に入れて言った。

「猫のこと? それともニコラのこと?」

「どっちも」

 ドルチェは敷いていた大きな布の端を摘んで言った。

「ニコラは少し物覚えが良すぎたのね」

「どういうことだ?」

「店主のルダでさえりんごがいくつ盗まれたか把握していなかったのに、三つ盗まれたとはっきり言ったんだもの。子供を疑うのはどうかと思ったけれど、あの時点で少し怪しんでいたのよね」

 それに、とドルチェが付け足した。

「りんごが落ちていた所、動物の毛が落ちていたわ。あの公園には野良猫が何匹か棲みついていたのを以前から知っていたし、けれど動物が盗ったのなら三つもりんごを盗めやしないもの」

「そうだな、確かに」

「フレールがよく散歩に行くと言っていたのもポイントね。私の予測が正しければ、人に懐いた猫が食べたのだと思ったの」

「あーなるほど。……いてて」

 シャルフの頬や手には引っ掻き傷がたくさんついている。フルーツを仕舞う手を止めて、ドルチェは傷をまじまじと見た。

「よく見たら散々な顔ね」

「お蔭さまでな……」

「帰ったら、すぐに手当てをしなくてはね」

 傷のついていない方の頬にドルチェが手を添えると、シャルフはふいと顔を逸らした。

「そりゃどーも。それより、こんな量のフルーツ買う必要あったのか? なにも、りんごだけ買えや良かったのに」

「良いのよ。私が食べたかったの」

 寝る前に食べましょう、とドルチェが提案すると、シャルフは曖昧に返事をしながらドルチェをじっと見つめた。

「……何よ」

「いや別に……お前は本当に賢いんだなって思っただけだよ」

「褒めたってお小遣いはあげないわよ」

 くすくすと笑って、ドルチェはフルーツを包んだ大きな布の結び目をシャルフに握らせた。

「ニコラが勇気を出して叱られに行ったのだから、私たちもフォローに行きましょうか」

「いいや、その必要は無さそうだぞ」

「?」

 シャルフはフルーツとトランクを持ち上げると、公園の反対の入口へ爪先を向けた。

「ニコラたちは明日にでもうちに来るよ」

 優しい声と共に向けられた視線をドルチェが追いかけると、そこには連れ立って歩くニコラとシェルシェの姿があった。

 

 

     ○●○●○

 

 

「ティアのこと、嫌われなくて良かったね!」

「うん、」

「ちゃんとごめんなさいできて、良かったね」

「……うん」

  ルダとの話が終わったあと、ニコラはシェルシェを送る為に再び家を発った。歩いているフレールの尻尾が左右にゆらりと揺れるのをニコラはじっと見ている。

「…………」

 シェルシェはニコラの手を取った。

「……ニコラは悪くないよ」

「え?」

「ニコラはティアの為にりんごをあげたかったんでしょ? 悪くないよ」

「でも盗んだことには、変わりないよ」

 ニコラはきゅ、と手を握り返した。ニコラの中にはまだ後悔と罪悪感が残っている。

「あたしがもしニコラだったら、おんなじことをしたよ」

「シェルシェも……?」

「うん。だって、フレールがお腹空かせてたら、盗んででもあげちゃいたいって思うかも」

「…………」

 ニコラはシェルシェの家が自分の家に比べると裕福であることを知っていた。しかし、シェルシェのその言葉が嫌味ではなく心からの同意の気持ちなのだと、聞かなくても分かる。シェルシェが自分の立場に立って気持ちを考えてくれているのだと。

「シェルシェは、優しいね」

「え?」

「……ううん」

 ニコラは少しだけ胸の辺りに纏わりついていた何かが薄れていくのを感じた。シェルシェが明るく声を出す。

「これからお手伝いがんばって、がんばったらそのお金で猫缶買おうねっ」

「……うん!」

 握った手を振りながら、二人が待つ公園へと入った。しかし、公園に入ってすぐに白と黒の探偵がいなくなっていることに気がつく。

「あれ? お姉ちゃんたちいなくなってる」

「ま、まだ報酬払ってないのに」

 どうしよう、とニコラが言おうとしたところで、シェルシェのお腹からは大きな音が鳴った。

「! えへへ……もしかしたらお姉ちゃんたちも、お腹すいたから帰ったのかも」

「あはは、そうだね」

 ニコラとシェルシェは顔を見合って笑った。ティアはする、とニコラの手をすり抜けると足元に降りて、頭を擦りつけてにゃあん、と鳴く。フレールが小さく、その声に答えるようにして鳴くと、ティアはゆっくりと公園の奥へ消えていった。

「……ぼくらも帰ろっか」

「うん!」

 ニコラは笑ってシェルシェの頭を撫でた。

「ありがとう、シェルシェ」

「んーん、明日お姉ちゃんたちのところに行こうね、ニコラ!」

 遠くで猫の鳴き声がするのを、二人は背中で聞きながら歩いた。

 

 

     ○●○●○

 

 

 アパートの一室へ戻ると、シャルフはまずどさりとソファへ沈んだ。その大きな身体で器用にバランスを取り、横たわる。ドルチェは反対のソファに座ることを余儀なくされた。

「シャルフ、どうしたの?」

「……あー……いや……」

 目を瞑り、シャルフは唸る。

「体調が悪いなら、ベッドへ行ったら?」

「や、違う……ちょっと疲れただけだ」

 シャルフは手を振って軽く目を開けた。立ち上がりシャルフの傍でしゃがんだドルチェは、傷だらけの顔を見るなりもう一度立ち上がって棚から救急箱を取り出した。それをテーブルに置き清潔な布を取ってきて、水に濡らしシャルフの元へ戻る。

「痛いと思うけれど、暴れないでちょうだいね?」

「痛いって分かってるならなるべく痛くないように……いっ!」

「こら、暴れないで」

 治癒の進行をかえって遅らせてしまうとどこかで聞いたドルチェはあえて消毒液を使わなかった。それよりも、傷の近くに付着しているであろう砂塵を取る方が有益であると判断する。

「いだだっ! も、もうちょっと優しくしてくれよ」

「きちんと拭かなくちゃ綺麗にならないわ」

「それはそうだけどさ……」

 大の大人が涙目で自分を見つめてくることが可笑しく、ドルチェは微かに笑った。

「なに笑ってるんだ、人が痛がってるってのに」

「いいえ、何でも」

 てきぱきと手を動かし何とか絆創膏を貼り付け終えると、ドルチェはソファに寝転んだままのシャルフの黒い艶やかな髪を梳くように撫でた。

 しばらくそうしていて、ふと、ドルチェが声を出す。

「……ねえ、一緒にフルーツを食べましょう」

「ああ……皮剥きならやるから」

 微睡んでいるのか、シャルフの普段から気怠げな目は輪をかけて覇気が無い。

「そうじゃないわ。一緒にという言葉の意味を分かっていないのかしら」

「え?」

「今日の貴方の働きを認めて、私も準備をすると言っているのよ」

 眉を顰めるドルチェに、シャルフは思わず笑いを零した。

「そりゃ有難いな」

 くしゃ、とドルチェの頭を撫で、起き上がったシャルフはやっと上着を脱ぐと、

「じゃ、準備するか」

 と笑った。

 

 

「……何よこれ」

 ドルチェの手元にあるのは、動物の食べ残し──に見間違うようなりんごだったもの。

「うーん……、惜しい、な、多分……。誰だって最初は……まあ……」

 シャルフは声を上げて笑いそうになるのを必死で堪えた。切るところもないようなそれを皿に載せると、ドルチェ飽きたようにふいと顔を背けてナイフを机上に置く。唇は尖っていた。

「ドルチェ、そんな拗ねないで」

「拗ねてないわ別に」

「ほら、可愛いのやるから」

 りんごの飾り切りはシャルフの特技だった。目の前に差し出されたのは耳が赤いうさぎ。

「こんな、子供だましで私は喜ばないわよ」

 言いつつドルチェは受け取ると、しゃく、と瑞々しい音を立てて食べた。

「見た目が変わったって、味は変わらないもの」

「まあそう言うなって」

 シャルフは慣れた手つきでオレンジを薄切りにし、ぶどうはひとつひとつ皮を剥いてグラスに入れた。他にもフルーツを敷いてそこへ炭酸水とシロップを注げば、簡単にフルーツポンチができあがる。

「はい、これでも食べて機嫌直してくれよ」

「……仕方ないわね」

 甘すぎるシロップの味はドルチェの好みではない。しかし、こうしてたまにシャルフが作ってやると、炭酸に顔を顰めながらも嬉しそうに笑うのだった。

「美味しいか?」

「ん……美味しいわ、ぶどうが新鮮で」

「お気に召したようで」

「貴方もひとくち」

 はい、と差し出されたスプーンには艶やかなぶどうが乗せられている。シャルフは少し身体を寄せてから、ふ、と視線を泳がせた。

「いや、いい。俺あんまりぶどう好きじゃないし」

「そうだったかしら? パイを作ったときには喜んで食べてたじゃない」

「あー、今は、気分じゃないから」

 そう言うとシャルフは何かを思い出したように立ち上がった。

「悪い、ちょっと疲れたし先にシャワー浴びてくる」

「え? ええ、構わないけれど」

「ごめんな。食器そのままで良いから」

 シャルフはへらりと笑って立ち去った。ドルチェは追いかけようとしたが、しかしその大きな背中に拒絶の陰を見て思い留まる。きゅ、とグラスを持ち直した。

「どうしたのかしら……」

 独り言に反応する者はいない。グラスの中で泡が、ぱちぱちと音を立てて弾けていた。

2020年2月